ランチアワー

 ライオンのような女――だと思う。
 オスの立髪の方……そう言えば外見も似ている気がする。
「ちょっとぉ、シマモ! ボーっとしないで! 早く渡してぇ!」
 ライオンが吠えた。
 私は慌てて、キャリーバッグの中から、まだ刷り上がったばかりの新書を五冊ほど取り出し、立髪の女、ババアに手渡す。
 ババアは、老婆の方を向き直った瞬間、目尻をこれ以上にないほどに下げて、
「お姉さん、この本、面白いのさ~、もし、お時間があっだどぎにぃ~、読んでけれ~、いらながったら~、誰か、ご友人にあげてけれ~、よろしぐねぇ~、オネェさん、重いおみやげで、御免ねえ」
 猫撫で声で、手渡しながら、強く握手している。
 ババアの訛りはどこの言葉かわからない。彼女なりに現地の人間に合わせて調律しているつもりなのだが、完全に彼女が作り上げた田舎の偶像だ。
 書籍のタイトルには『アタシの闘争』と書かれていた。
 どこかで聞いた気がする。大丈夫だろうか……
 彼女の表情に疲れが見える。配り疲れて来たのだろうか。無理もない。
 今朝から山付近の田園まで来て、ずっと農作業から帰る人達を捕まえては、握手して回っていたのだから。
 もう農作業している者は、ほとんど帰り、日が高くなろうとしていた。
 彼女の心中は穏やかではない。選挙まであと二週間と迫っていた。
 ババアが車に乗り込み、放心して空を見ている。
「シマモ~ お腹空いたわねえ」
 私は、急いでエンジンをかけて走り出した。念のため、近辺の食事処は押さえてある。
 車がスーパーの横を通り過ぎようとした瞬間、
「ちょっと、シマモ! 止めて、止めて! 肉、大安売りだってよ」
 どうしたのだろう? ババアは自分で料理をするタイプの女ではない。もう二十八になろうとしていたが、食事一切の家事は、子供の頃から家のお手伝いさんがやっているらしい。
 私は一応、車を止めて、
「代議士! 焼肉屋……が、ご希望でしょうか」
「違う、違う、ちょっと、降りましょう。アタシ、物凄く良い事、思い付いちゃったのよ~もうアタシ、天才だわ~」
 嫌な予感しか、しない……
 ババアはスーパーの中に入ると、カゴを二つ私に渡した。気合を感じる。
 予想した通り、彼女は、次々と、目に映るの肉の塊を片っ端から、カゴに放り込んでいった。すぐに腕が千切れそうにそうになったので、カートを持って来て二台並走する事にした。
 今晩、焼き肉でもするのだろうか?
 会計を済ませ、車の後に乗せて走り出す。
「あとね~シマモ、ホームセンター寄って」
 大体、わかって来た。
 ホームセンターに寄って、バーベキューセットを購入すると、得意そうに笑いながら、
「シマモ、今日のお昼は、バーベキューよ! すぐにさっきの場所に戻りましょ」
 肉を焼き始めると、匂いに釣られて、家に帰ったはずの連中が出てきた。
「さあ~さあ~みんな~遠慮しないで、食べてげれ~、ちょっと安かったんで、買い過ぎじゃったのさ~、さあ~さあ~好きなの、どんどん……坊っちゃん、賢そうだね~、どんどん食べて、お父さんとお母さん、助げてやれ~、お嬢ちゃんもめんこいの~、さあ、さあ、だっくさん、食べて、良い子産んでげれ~~ってまぁだ早いが~ハハハ……」
 この女の凄い所は、票のためなら、おおよそ自尊心というものを捨て去る事が出来るところだと思う。
 私は、ひたすら、肉を焼き、紙皿に取っては、ババアに渡す。今朝から配っていたババアの自伝が肉に変わっただけのことだが、スーツに肉の匂いが染み付くかと思うと、朝より憂鬱だった。
 最初は、物珍しがって、家から出てきた連中も、一通り肉を食べて、また、ババアに自伝を渡され始めると、すごすごと帰って行った。
 だいぶ人も引けた頃、
「シマモ~、さっき、ホームセンターに行った時さあ、保険事務所があったでしょ、ちょっとあそこに寄ってみようよ。さ、この辺、バ~と片付けちゃって」
 ババアが残った肉を急いで、紙皿に取って頬張り始めた。
「も~全然、食べられなかったわよ。ん? この肉、まずいわね。かたいわ。焼き過ぎちゃったかしら、ホント、アイツら、がっついてるんだから、普段、何食べてんだか、怖いわよ」
 と言いながら、頬張っている。
 私は、勝手がわからないながらも、何とか片付けつつ、その合間に、こんな事もあろうかと、買っておいたコンビニのおにぎりを食べる、という離れ業を決めてやった。ババアは気付かなかったようだ。
 ババアは紙皿に取った肉を全て平らげ、車に乗ると、
「シマモ、片付けるの遅いわよ。もう行くわよ。早く車出して」
 やはり食べておいて正解だった。と、ほっとしつつも、だんだん腹が立って来た。この女は私が光合成でもしている、と思っているのだろうか。
 保険事務所の駐車場に車を止めた。
 事務所とは言ってもプレハブ作りで、工事現場で見かけるような仮設事務所のようなものだ。その狭い階段を上り、事務所のドアを開けると、事務員が数人残っているだけだった。
 彼女は、今度の出馬が二期目である事を告げ、簡単な自己紹介を済ませると、すぐに自伝を事務員に配り始めた。
「最近、株が下がっているでしょ。これはまずいのよ。保険金の原資が減っているって事だからね。お嬢さん達も、気をつけてねぇ、この本にはさ、アタシがディーラーやってた頃の話も書いてあったと思うんだわ、確か……だから、お嬢さん方の助けになると思うから、読んでね」
――ババアがディーラー?
 初めて聞いた。いや、恐らくウソだ。いや、絶対にウソだ。こういうすぐにバレるウソ、その場の思い付きで言い切ってしまえるず太さにたまに感動すら覚える。
 心なしか自分の足が震えている。
「いっぱい、置いて行くからさ、みなさん、帰って来たら、渡してあげてね」
 事務員たちはババアの持つオーラに気圧されて、何も言えずに小さく頷きながら固まっていた。ババアの笑顔からは、もし自分を無下に扱ったら、当選した時に覚えていろよ、といった気迫が発散されているのだ。
 保険事務所を出て、車に乗り込むと、バーベキューの匂いが充満していて、戻しそうになったが、ババアは平気のようだった。
「さあて、そろそろ本番よ」
 口元に力を入れて、気合を見せている。
 私もいくぶん緊張して来た。これから、この地区の自治体の長に会いに行く予定があるのだ。
 自治体の長の豪邸に着くと、私だけ車の中に待たされ、ババアが使用人に案内されて、その豪邸の奥に消えて行った。
 毎年、彼女は自分のパーティ券をまとめて買ってもらっていた。
 こういう大口の支援者を何件も持っているのが彼女の強みと言える。
 とはいえ、この手のコネを彼女が一人で築き上げたわけではない。先代が存命中の時に、一緒に付いて回っていた事から、自然と顔見知りになり、その人に合った世間話も覚えていったのだ。先代の遺産と言える。
 一時間も経った頃だろうか……ババアが戻って来た。
 無事に捌けたのだろうか? 緊張する。
 車に乗ると、大きなため息をつき、出して、と言った。
 どうやら上手く行ったらしい。予定どおりの枚数が捌けた様子だ。
 ババアも緊張するのだ、と思うと少し可笑しい。
「あ! ちょっと止めて!」
 車から降りると、歩いていた婦人を呼び止めて、例の自伝を渡した。
「最近、株が下がっているでしょう……」
 また、元ディーラーだったらしい話をしている。今日は、あの路線が気に入ったようだ。
 婦人と握手すると、車に乗り込んで来て、さ、急ぎましょう、言った。
 本当にこういう生命力はどこから来るのだろう。今しがた、大きな商談をまとめて来たばかりで、やっと緊張の糸がほぐれて来た瞬間に、直感的に、あの婦人なら、話を聞いてくれそうだと思ったのだろう。でも、私なら、一仕事を終えたばかりだし、ここで一人、二人に宣伝出来たところで何だと言うのだろうと、わざわざ、出て行ったりはしないだろう。さすがにウソの方は、さっき、こしらえたばかりのもので使いまわしたみたいだけど。
 車はレンタカー屋に戻って来ていた。
「え~ 何? これ? お客さん、肉の匂い酷いよ! こんなの前代未聞ですよ!」
 レンタカー屋の店員が怒っている。無理もないだろう。
「お兄さん、そのバーベキューセット、ア・ゲ・ル」
 ババアがウィンクした。そして自伝を取り出し、店員にしっかりと握らせ、グッと手を掴んだまま、見つめ出した。
 レンタカー屋の店員は、少しボーっとしている。ババアはあれで、結構色っぽいのだ。決して生まれついての美人というわけではないが、化性映えするというのだろうか。不慣れな男なら、あれでイチコロだが……
「もう、お客さん、このバーベキューセット、売っちゃいますからね~これで代金回収しますからね~」
――ほら!
 車を返した後、私達は列車に乗り込んでいる。だいぶ軽くなったとはいえ、まだ、ババアの自伝はキャリーバッグで二つあった。
 列車の中は、だいぶ空いている。これから都会に向かうにつれて混んで来るのだろうか。
 彼女は、鞄を開けて、数冊取り出すと、同じ車両に乗っている乗客に配り出した。
 ヤレヤレ……この女に休む、という文字はないのだろうか。乗客もババアと乗り合わせたために良い迷惑だ。
「この本、面白いよ~退屈な列車の中なんて、あっどいう間だがら~読んでねげれ~ただ一つだけ、注意してげれさ。夢中になり過ぎて、乗り越さないようにね~」
 調律は上手く行っていないようだ。やはり疲れが出ているのか、通り過ぎる景色と自分の偶像が上手く統合できないのか……
 一通り配り終わると、また席に戻って来た。
 こういう時、彼女は私にも配れ、とは決して言わない。最後に握手しながら目の奥を優しく見つめるのが、面倒でも確実に一票につながると信じているのだ。
 列車は都会に向かう前に一度、海辺を通る。夕日が車内に差し込むのと同時に、サーフボードを抱えた若者が乗り込んで来た。恐らくこの辺の地元の学生だろう。
「ねえ、あなた達、綺麗に焼けているわねえ。羨ましいわ~アタシも昔は焼くの好きだったんだけどねぇ~さすがにねぇ……」
 ババアがウィンクしながら、微笑みながら、自伝を取り出した。
「これ、面白いから、読んでよ。アタシの若い頃の話が書いてあるの。読めば良い波にも、社会の波にも乗れるかもよ~」
 学生達がゲラゲラと笑った。
「読まないからって、これに乗っちゃだめよ。読まないなら、お家の人か友達にあげてね」
 学生たちは、しぶしぶなのか、照れくさいのかわからない表情で本を受け取った。
 学生達が二駅目で下車した時、
「シマモ! 降りるわよ、急いで!」
 ライオンが吠えた。
 私は慌てて鞄を引き摺りながら下車した。今度ばかりはババアも鞄を持つのを手伝ってくれながらの下車だ。予定にはない。何事だろう。
「代議士、どうかされましたか? ここは降りる予定じゃないですよ」
「うん、アタシ、まぁた、閃いちゃったのよ。ねぇ、あなた達ぃ~!」
 ババアが、先程の学生達を呼び止めながら走って行った。学生達は疫病神に捉まったのではないか、と怯えている。
 愛想良く彼らと話をして、何かを聞き出したようで、戻って来くると、
「シマモ! この辺に魚市場があるらしいのよ、急げば、まだ、やってるって、さっ、急ぎましょう」
 私は恨めしい目をしていたと思う。せっかく、あとは終点までゆっくり出来ると思っていたのに。こういう予定外の行動は、本当に腹が立つ。
 ババアはさっさと学生達に聞いた魚市場まで足を運ぶと、早速、自伝を配り始めた。
「何でも、これって、若くして偉大な政治家の跡を継いだ女政治家の自伝らしいのすけ。読むと大漁、間違げぇねえらしいのすけ」
 ヤレヤレ、今度は漁師の調律か……この女は一体、どこが、どうなっているのか……どこで、こんな言葉覚えて来るのか……
 でも、意外とウケて、薦められた者達は笑いを堪えて、受け取って行く。今日、帰ったら、家族と大笑い出来るネタを一つ仕入れた、といった所だろう。
 ババアが、本を配りながら、たまにチラチラと砂浜の方を見ている。
――嫌な予感しか、しない。
 サーフボードを抱えていた学生達が遠くからこちらの様子を見ていた。
 自分達がうっかり教えてしまった事で何かトラブルになっていないか、心配になって家に帰る前に見ているのだろう。
 ババアが、学生達に気づいて、大きく手招きをした。学生たちは、仕方なくこちらに歩いて来た。
「ねえ、あなた達、ピザ食べたくない? これから砂浜でピザパーティ始めようよ。ほら、それ、持っていてあげるから、これで出来るだけ、買って来て」
 学生達からサーフボードを受け取ると、お金を渡した。
 学生達は、いつの間にかサーフボードを取られて、ピザを買って来ないと、返してもらえない状況に陥っていた。
 仕方なく、学生たちは、質に取られたサーフボードに未練を残しながら、買い出しに行った。
「炭も忘れないでね~!」
 さらに後ろから吠え立てる。
 しばらくして、学生達は、本当に、出来る限りのピザを両手に抱えて戻って来た。
「じゃあ、あの鉄板でピザ焼こうよ」
 振り返ると、昨晩サーファー達が使って、そのまま放置したと思われる、タイヤのホイールと鉄板を指さした。
 ババアは、それを見ていたのだ。
 学生達は、心得たもので、手際良く、ピザを焼き始めたが、生地だけが焼けた微妙なものが出来上がって行く。彼女は構わず、
「さあ、さあ! ちょっとピザ、買い過ぎちゃったすけ、みんな食べて行って下さいよ~、さあ、さあ、余ったら勿体無いよ~」
 彼女が手を叩きながら呼びかけると、浜を散歩していたカップルや、日が暮れて来たので、そろそろ帰る支度していた高校生達も興味津々で近づいて来た。
 ババアが騒いでいる横で、ポツンとサーフボードを抱えている私に、気の弱そうな中学生が、
「おばちゃん、これ、本当にタダ?」
――誰が、おばちゃんだ、コラ~!
まだ二十二だっつーーの!
「そうよ。友達も呼んであげてね。きっと、すぐになくなっちゃうよ」
 中学生は顔を上気させ、
「おい! お前ら! ガチ! ガチでタダだってよ!」
 このガキ、友達の中ではエバりん坊さんか……
「今、どんどん、面白い本もプレゼントしてるけどお! 本の後にパーティ券を申し込むハガキがついてるから~どんどん応募してね~ホームページからも手に入るからね~、でも、それはタダじゃないわよ。たんまりと、払って貰うから~ お父さんとお母さんによろしくね~」
 ピザらしきものを食べながら中学生がゲラゲラと笑っている。
 海風が少し冷たくなっていた。
 私は時計を見てびっくりした。
「代議士! 大変です。急いで列車に乗りましょう! 後援会に間に合わなくなります!」
 ババアも時計を見て、驚き、
「ああ~残念、もう少し、みんなといたかったけどお、これから爺さん連中とデートの約束があるんすけ~行がなきゃ、お尻たたがれっがら~」
 場がドッと湧く。
 突然、ババアが駅に向かって走り出した。
 私も質にされていたサーフボードを可哀想な学生達に返して、彼女の後を追った。
 私達は、身軽になり、走れるようになっていた。
 もう自伝が詰まったいた鞄は空になっている。本当に今日一日で配り終えてしまったのだ。最初、列車に鞄を四つ積み込んだ時は、正気の沙汰とは思えなかったが……
 彼女の足は速い。走り慣れているのだ。普通、二十八にもなれば、どこかで、走らなくて良くなるものだろうが、この人がこういう生き方をして行く以上、人生がフィットネスなのだろう。
 終点で下車して、タクシーで後援会場に向かう。
 後援会の楽屋に着くと、
「シマモ! アレ持って来て!」
 私は、事前に用意しておくように指示されていたモノを差し出した。
 
 後援会の舞台では司会が、マイクを片手に流暢に前説していた。
「はい、それでは、大変長らくお待たせ致しました。我らが姫の登場です。我らの姫は、今しがたドサ回りで、たった今、楽屋に現れたのでした~相変わらず、お忙しくしているご様子です。それでは、ご登場願いましょう!」
 ドラムロールが鳴り響く中、スポットライトを独り占めしたババアがローラーブレードに乗って登場した。
 彼女は運動神経が良い。颯爽とスベっている。どこで練習していたのだろう。
 両手を上げて歓声に答えている。目がキラキラと輝いて、満面の笑みを讃えている。
「みんな~お待たせして、御免なさ~い! これから歌でも歌うから許して~」
 会場が暖かい笑いに包まれた。
「はい、姫の可憐なパフォーマンスでした。それでは、すみません。時間が押しておりますので、すぐに進行させて頂きます。後援会長のご登場でございます」
 司会は相当、汗をかいている。無理もない、後援会長が突如、舞台に現れた。この老人が影の支配者と言っても良い存在なのだ。先代からの地縁を管理している。
 よろよろと壇上を進む中、雰囲気を察して、後援会場に集まり、今、彼女のパフォーマンスに湧いていた者達も、静かに老人の足取りを見守っている。
 老人は大きなぬいぐるみを持っていた。
「姫、お誕生日おめでとう、選挙は二週間後に迫っておりますが、二週間後にも、再び、お祝いの言葉が言えるように願っています」
 会場はたちまち白けて行ってしまった。彼女は、一瞬、目だけは天を仰いだが、
「まあ、嬉しい、おじ様、ありがとう!」
 作り笑いを浮かべて握手して、受け取ったぬいぐるみを高々と両手で、まるでトロフィーでもかざすように、会場に集まった人々に見せた。
 会場では歓声があがり、やがて後援会長が袖に引くと、彼女の演説が始まり、元々、緩い聴衆のせいで、何事もなく終わった。
 楽屋に戻って来たババアが、ローラーブレードを脱ぎながら、
「どうだった? シマモ~、これで聴衆の心も鷲掴みってもんでしょ。ジャニーズみたいだったでしょ」
「え、ええ……とても……とても斬新で、皆さん、大喜びでしたよ」
 また心にもない事を言ってしまった。ジャニーズ? 冗談じゃない。
「ねぇ、それ……事務室に運んでおいて。明日、家の者に取りに来させるわ」
 後援会長からプレゼントされたぬいぐるみを顎で指して、楽屋を出て行った。
 彼女は、後援会館の廊下奥の事務室に向かった。
 三階建ての後援会館ビルは、先代から受け継いだ遺産の一つで、ビルの中には、小さな舞台会場と後援会員専用の控室と、事務室があった。
 私が大きなぬいぐるみを抱えて事務室に入ると、彼女は、既に奥の書斎に入っていた。
 ぬいぐるみを部屋の隅に置いて、お茶を淹れて書斎に入る。
 書斎机の横の革製のソファの上にババアが全身を預けた格好で、スピーカーから流れる音声を聞いていた。
 いつもの事だ。彼女は音楽を聞いているのではない。
 スピーカーは、後援会館の一室にある後援会員専用の控室の様子を伝えていた。
 後援会メンバーの老人達に対して、彼女は疑心暗鬼になっていた。
 つい先月の事だ。ババアがしきりに控室の様子をドアの外から耳をあてて聞いて来い、と言う。前の秘書も、それが嫌でやめたらしい。
「代議士、いっその事、盗聴機を仕掛けたら、どうでしょう」
と言ってみたら、あっさり採用されてしまったのだ。
 盗聴機からは後援会長のしわがれてはいるが、力強い声が聞こえて来た。
「ヤレヤレですな。姫もまだまだ子供ですな」
 控室の他の老人達が、後援会長の言に同調するようにドッと湧いている。
「本当に。会長、やはり姫は、まだまだ、ぬいぐるみがお似合いでしたな」
「ああ、もう、熊のぬいぐるみで喜ぶ年でもあるまいに、はっ、はっ、はっ……」
 また会場が同調する。
「……ざ、ざけんじゃねぇよ! 誰があんな、綿クズで喜ぶかよ! そこで、グダグダくっちゃべってる暇があったら~……暇があったら~」
 ババアが顔を真っ赤にしている。
 また他の老人の声が聞こえて来る。
「何です? 姫の、あのおかしな格好は、我々はピエロを支えているつもりはありませんよ。聴衆は演説を聞きに来ているんであって、あんなドタバタ喜劇を見に来ているんじゃありませんよ。……先代のご縁から、今まで応援させて頂いていましたが……こんな事じゃね……援助も考えなければいけませんな。目的がズレておる」
「まあ、まあ、そこはグッと堪えて下され、折を見て、姫には釘を刺しておきますから……どうぞ、この度は、私の顔に免じて……」
「まぁ、会長がそうおっしゃるんじゃ、仕方ありませんな」
 彼女は、顔面蒼白になっていた。ソファから起き上がると、
「シマモ! ちょっと外に出て、くっそう! あの爺どもめぇ! こうなったら、あの手しかないわ」
 そういうや否や、壁にかかっていた絵をずらすと、金庫が現れた。
「シマモ、まだ、そこにいるの? まあ、いいわ、こっちを見ないでよ」
 彼女は、焦って、金庫のダイヤルを回し、金庫をあけると、宝石箱を取り出した。
 そして書斎の衣装ケースからドレスを出すと、着替え始めた。
 スピーカーからは、司会の男がノックをして入って来て、
「皆様、大変、お待たせしました。二次会のパーティの準備が整いました。どうぞ、ご入場下さい」
 という声が聞こえて来た。
 パーティは立食ではあったが、出てくる料理はしょぼいものばかりだ。
 準会員のメンバーがパーティ券を買って、参加する、事実上の金集めのイベントなのだ。
 今日も、こういう予備軍達を育成するために朝から、這いずり回っていたわけだ。
 パーティには爺様たちの伴侶である婆様たちも出席していた。肥え太った婆さんばかりなのに、オーダーメイドのドレスを着込んでいた。いや、オーダーメイドじゃないと無理か……
 ここには、政界にツテをつけたいと目論む連中もいる。パーティ券を買って、参加するだけで、コネが出来ると思っているんだから、なんておめでたい連中だ。
 しばらくすると、おお~という地響きにも似た歓声があがった。
 ババアの登場だ。
 彼女は派手な青いドレスで登場した。胸元には先ほど宝石箱から出したばかりのネックレスをしている。
 腕にも品のない宝石と親指を除くほとんど指に高価な指輪をしていた。
 どう考えても成金趣味、悪趣味の極みだったが、不思議と彼女がやると、長身のせいなのか、持って生まれたオーラのせいなのか、宝石に負けていなかった。
 ババアは長老達の女房連に近づき、仰々しい挨拶を済ませると、
「おば様方、アタシ、今夜の格好、ちょっと恥ずかしいわ、少し嫌な事があったものだから、気持ちをしっかりしようと思ったら悪趣味が過ぎちゃいました。でも、不思議ですね。おば様方にお会いしたら、だいぶ気分が軽くなりましたの。本当にありがとうございます」
「まぁ、まぁ、姫様、大丈夫? お体には気をつけてね」
 老婆たちが気分を良くしている。
「そうしたら、急にこの指のチャラチャラした飾りが重くなりましたの。これからパーティが終わるまで、とてもはめてられないわ。どうでしょう? おば様方、これから、アタシが身に付けているものを、少し預かって頂けないかしら? 勿論、そのまま持って帰って頂いてかまいませんわ。今日、癒して頂いたお礼なんて言って、ご気分悪くされると、つらいんですけど……」
 老婆たちの目が鋭く光った。
 結局、二次会のパーティがお開きになって、書斎に戻って来た頃には胸の大きなネックレス以外の宝石が消えていた。
 ババアがまた盗聴機で控室の様子を聞いている。
「まったく、何じゃ? わし、姫の事、虐めたか? 家内から、姫をいたぶったに違いないって、厳しく怒られたんだが、誰じゃ、そんな事を言ったヤツは?」
「ワシも家内にコッテリやられましたわい。今日、家に帰るの億劫ですわ」
「は~……」
 控室の雰囲気が沈んでいる。
 その様子を聞いていたババアが、
「ひゃーーハハハ……! ざっまあ見やがれ、老いぼれたちめ! 愉快、愉快! ねぇ、シマモ、愉快!」
 ババアが顔を真っ赤にして大汗をかいて喜んでいる。
 彼女が上着を脱いだ。
「は~~。スッキリした。……ちょっと、シマモこっちに来て!」
 近づくと、いきなり、私を抱き寄せた。
――はぁ? ついにトチ狂ったあ?
 かなり、きつく抱きしめられる。
 そう言えば、先日、給湯室で先輩秘書と話していた時、
「シマモさん、あなた相当、代議士に気に入られていますよ。これって、とても珍しい事なんですよ」
と、言われたことを思い出した。
 普段、怒鳴られてばかりで、そんなふうに感じた事がなかったので、この先輩秘書の言葉は印象的だった。
 が、まさか……そういうこと? そう言えば、ババアは二十八にもなるのに、その手の浮いた話を聞いた事がなかった。
 彼女の抱きしめる力が強く、顔から血の気が引いて行く……
「ちょ、ちょっと、代議士……」
 すぐにババアが私を引き剥がして、
「駄目だわ……シマモ、アンタの体、冷たいわ。きっと、心が体に出てるのよ」
 と言って愉快そうに笑っている。
――ああ、そうでしょうとも! 冷えきってますともぉ!
「ちょっと、シマモ……あの……ぬいぐるみ……あれ、持ってきて」
 あんなに嫌がっていたのに……私は、事務室の隅に置いておいた、ぬいぐるみを持って来て彼女に渡した。
 ババアが小刻みに震えて、
「なんか、寒いわねぇ……シマモ、アンタよく平気ね。ちょっと暖房入れてくれる? あと、もう遅いから帰っていいわ、もう少し温まったら、迎えを呼ぶから、今日はご苦労さま」
 寒い? 少し心配だが、私も、もうヘトヘトだ。早く帰ってシャワーを浴びたい。
「代議士、念のため、仮眠用の羽布団も出しておきますから、まだ、寒かったらこれにくるまって下さい」
 私は、ババアが、了解、という仕草をしてニッコリ笑ったのを見届け、事務所を後にした。

 十人入れば一杯になりそうな小さな会議室の床で、ツキダはしゃがみ込んでケーブルを這わせていた。
 今日は、昼過ぎから、新しい介護施設の開発プロジェクトのプレゼンをする事になっている。
 プレゼンには支店長とシステム開発部の人間が参加することになっていた。
 すでに開発予定地の買収が終わっていたプロジェクトなので、社内の人間であれば、誰がやっても良いような仕事ではあった。
 いくつかの施設のタイプがあったので、その中から適当に組み合わせれば良いだけである。
 しかし、ここ数年の間、黙殺されて来たツキダにしてみれば、久しぶりの仕事らしい仕事だった。
 テストのためにプロジェクターのスイッチを入れる。
 白い小型のスクリーン上に映し出された像は、ツキダのノートパソコンのデスクトップ画面に設定されているものだ。
 画面には家族の写真が設定されている。
 普段見慣れている画面だが、公になったようで照れくさい気がする。
 妻と十五歳の娘の姿があった。
 暫くその画像を見て、落ち着こうとしていたツキダだったが、徐々に落ち着きを失って行った。
 いきなり受話器を取ると、外線から本社に電話をかけ始めた。
 電話の先から同期の男の声が聞こえる。
「ツキダぁ……また、その話かよ……そんなに上手く行かないって……一度大きなミスをやらかしたら、社長が根に持つ性格なの知ってるだろう?」
「ちゃんと娘と向き合って話し合いたいんだ。今、大事な時期なんだよ。会って、ちゃんと話がしたいんだ。年頃の娘を持つ親の気持ちは、お前なら、わかるだろ?」
「ん~……それを言うなよ……そういうのに弱いんだよな~知ってて、言ってるだろ? 俺だってなあ、事ある度に……特に飲み会の席なんかで、様子を覗ってお前の事、持ち出すようにしてるんだぜぇ~ でも、何て言うのかな~、こういう問題は時間がかかるんだって……そうだ! お前が社長に直談判しろよ! うん、それが良い」
 同期の男は名案を思いついたという風に言う。
「そんなの何回もやったよ。その結果がこれだろ、今じゃ支社どころか支店だよ」
「だから、ちゃんと、そういう先々で実績を積んでだな~」
「お言葉ですが、お前は、飛ばされた事がないから、わからんのだよ。お前、今、自分でコピー取ったりしてないだろ。女子事務員にやらせてるんじゃないのか? コピー機もどんどん進化してるんだぜ? たまにコンビニのコピー機とか弄っておいた方が良いぜ?」
「ツキダぁ……お前、何が言いたいんだよ。俺も忙しいんだよ、来週のプレゼンの準備をしなきゃならないんだよ……」
「つまりだな。実績を積める仕事をやらせてもらえないんだよ。入社したばかりの若造に戻った気分だよ。今だって、昼過ぎからプレゼンをやるのに、俺がケーブルを這わせてるんだぜぇ? こういうのは新人の仕事だろ? こっちは資料作りやら、シャドースピーキングの練習に集中したいのに」
「……ん? シャドー? ……ま、いいや。そ、それはキツイな……で、でも、これは……これは……これは、言いたくなかったけど……」
「何だよ」
「その……ツキダ、お、お前の評判も良くないぞ? だいぶ元本社風みたいなの吹かせているそうじゃないか。俺は元エリートだぁ! って威張って、就業時間過ぎたら、さっさと帰っちゃうらしいじゃないか。たまには付き合いと言うのもだな~」
「はぁ~? 何言ってるんだよ! その前に元エリートって何だよ! 訂正しろよ! 俺は今でもエリートだよ! この支店に少しでも英語がしゃべれるヤツがいるかぁ? 古典とか読んでいるヤツいるか? ワインの銘柄も、ろくすっぽ言えない野蛮人達と一緒に酒が飲めるかよ。お前なら、そういうの分かってくれると思ってたよ」
「そういう事を言ってるんじゃないだろ! あっ、悪ぃ、社長が呼んでる。じゃ、切るぞ。とにかく心を開け! それからだ」
――ちぇっ、切りやがった!
 ツキダは、受話器をガチャンと叩き付けて、小さな会議室の窓からオフィス街のビルを見上げた。
 外国に電話をかけている気分だった。果たして、今、同じ言語で話していたんだろうか?
 妙な事が気になる。
 今やるべきことに集中しなければ、明日はない。そんなことはわかっている。しかし、底から突き上げてくるような焦燥感に、のたうち回りそうになる。
 その葛藤が激しくなればなるほど、ツキダの顔から表情が消えて行く。
 ツキダは、急に吐き気を催し、慌ててトイレの個室に篭る。
 数年前からよくある事だった。焦りと胃液は同じものなのではないか、とたまに思う。
 とにかく気持ちを落ち着けた。
 何にせよ、久しぶりのプレゼンだ。最近、職場で声すら出していない気がする。出るのはゲップばかり、胃酸過多なのだ。気持ち悪くなってトイレに駆け込んでも、実際に戻す事は少なかった。大抵は熱い胃液が出るだけだった。
 今日のは一層酷い。
 と、その時、トイレに誰かが話ながら入って来た。
「ねぇ、ツキダさん見なかった?」
「えっ? ツキダさんなら、会議室で昼前からプレゼンの準備してるんじゃないかな」
「今、会議室に行っても誰もいなかったから、聞いてるんだけど」
「えっ? おかしいな」
「……ったく、あの人は、使えねぇな。プロジェクターの準備なんか一分もあれば終わる作業だろ。昼前から準備するかねぇ~」
「しようがないよ。久しぶりのプレゼンだから、気合入ってんじゃないの?」
「自分が出来ないなら、若いヤツに頼んで、やらせれば良いだろ」
「その若いヤツに人望? って言うのか? そういうのないんだから、若いヤツだって言うこと聞かないさ。ちゃんと、助けてくれって、頭下げれば良いのに、『プレゼンする事になったんだけど……』って言うだけだもの。それで『じゃあ、僕らが準備しておきますね』って返って来る、と思ってるんだから……それで、あからさまに、コイツら気が利かねぇ、って態度に出すんだもの。本社の若いヤツは、さぞや、お利口さんなんですね、って話だよ」
 二人が小さく笑っている。
 中堅を気取った若い二人がトイレから出て行ったのを確認して、ツキダは会議室に戻って来た。
 おもむろにゴルフの素振りを始める。
「あの若造め!」
 ビュッ!
「わかってんなら……」
 ビュッ!
「お前らが……」
 ビュッ!
「や、れ、よ!」
 ビュッ!
「はあ、はあ、はあ……」
 ツキダは、少しだけ気持ちが落ち着き、受話器を取ると内線をかけ始めた。
「あの……さっき、私の事を探しているって聞いたんですけど、何ですか? はい……そう……ですか……私を含めて四人分ですね。はい、了解しましたあ」
 受話器を置いた後、また小さな会議室の窓から外のビルを見上げた。
――ふ、ざ、け、やがってぇ!
 ツキダは支店の駐車場に停めてある自転車に乗って出て行った。
 十五分ほどで汗だくで戻って来て、自転車のカゴからビニール袋を掴むと、汗も拭かずに会議室に戻って来た。
 手には四人分の弁当がぶら下がっている。
 弁当を机の上に並べ終えて、一息ついてホッとした自分に無性に腹が立ってきた。
――あームシャクシャする!
 だから、こういうのは若いヤツの仕事だろうが!
 何でこの俺が……お前らの頭の中の英単語の何百倍も詰まっている俺様がだ……歴史にも造詣の深いこの俺様がだ……何で、これから来る新人の弁当の分まで買いに行かなきゃならんのだ! おかしいだろ! プレゼンの準備が全然、進まねえだろ!
 ツキダは、ビニール袋の中から一つ弁当を取り出すとガツガツと食べ始めた。
――へへっ! ざまあみやがれ! 早弁してやる!
 己のささやかな抵抗に情けなくなりつつも、食べ終わった頃には、後悔の念で一杯になっていた。開き直れない己の脆さが一層情けなくなり、落ち込む。
――どう、言い訳しよう……
 も、もの凄く空腹で、昨晩と今朝、食事を抜いておりまして……て、駄目だ……
 うっ! ……ツキダは、また腹に痛みを感じた。
 慌ててトイレに駆け込む。この動きの素早さだけは熟練の行きに達しつつある。
 戻しながら、単純に自分の胃のせいなのか? 弁当に問題があったのかわからなかった。
 個室の中、携帯をを取り出す。
 待受け画面には娘の画像が設定されていた。
 娘にメールを打ち始める。
「『お昼は食べたかな?』と送信と……」
 ツキダはかなり頻繁に下らないメールを娘に送る。大抵は返って来ないが、返って来る時は早い。今回は数秒で返って来た。
「『ウン(怒)』か……やばい、やばい、怒ってるよ。夜まで送れないな」
 ツキダは待ち受け画面の笑顔の娘を見る。
 その笑顔を見ると、和むと同時に涙が滲んて来た。
 まったく……俺って奴は……
 ツキダがトイレで痛みと悲しみに暮れている頃、その支店の総務部は騒然となっていた。
 本社から突然、社長の息子を新人研修でそちらへ向かわせるという連絡が入って来たからだ。それも今日の昼頃に到着するという。あまりに急な話でまったく準備などする時間がない。昼と言えば、もう数分ほどで着くという事だ。
 支店長が理由を説明して欲しいと抗議すると、そちらの支店は、創業時に本社だったビルであり、新人に会社の沿革を学ばせるのに好都合だという。それは事実には違いないが、今となっては、ほとんどの社員が知らないし、そういう理由で研修に来た新人は皆無だった。
 確かに本社に入社したばかりの新人、特に幹部候補が子会社に派遣されて、現場の雰囲気を肌で知ってもらい、本社に戻った時に生かしてもらうという趣旨の研修は、それまでも行われていた。しかし、今回はあまりにも急過ぎた。
 普通なら一週間の研修計画を作り、各部署の担当等を決めて、通常業務との調整をしなければならない。
 そうでないと、いきなり呼ばれて、数時間、自分の部署の業務についてレクチャーしろ、と言われても、不愉快なまま、しどろもどろになった挙句、新人に変な悪感情を与えかねない。
 不貞腐れて、
「うちの部署は暇ですよ。いきなり、こういう感じで、レクチャーを振られたって、こうして、時間が作れるんですからね」
 なんて嫌味を言う者も出かねない。
 この会社は介護施設の開発と運営で事実上、政府御用達になっているため、何かと世間の注目を集めていた。
 特に最近は、ブラック企業であるというバッシングが酷く、本社の広報部はその対応に追われていた。
 本社からは、新人研修の様子をビデオに録画して、逐一報告するように、との指示があった。子会社の人達との和気藹々とした雑談の風景などの絵が、ご所望のようだ。
 支店長は本社の連中に抗議を続けながら、暫く考えていたが、ようやく何が起きているのか理解し始めていた。
 社長の息子の研修だと、いろいろと注目されるのだろう。少なくとも、テレビ番組で特集などが組まれる事になりそうだ。
 どこの子会社も厄介事に巻き込まれたくはない、ここに来て、最も弱いところにお鉢が回って来たというわけだ。
 それに、ここならテレビ局の連中は容易に入って来られない。こちらで映像を録画して、十分に編集してから、テレビ局に送ることが出来る。
 さて、事は重大だ。今からやって来る新人は、幹部候補などではない。次期社長候補なのだ。本人に悪印象を持たれるのもまずいし、呑気な研修風景の絵が撮れないのもまずい。
 こういう状況下では、部下が関わりたくないのも無理はない。先程から、新人研修を引き受ける者がいないか、応募を募っているのだが、誰も手を上げるものがいない。いつもなら点数を稼げて、偉そうな態度も取れ、通常業務から公然と離れられるので、刺激を求めて手を挙げるお調子者が数人はいるのだが……
 勘のいいヤツは、名前を聞いただけで、社長の息子だとわかってしまうのだ。
――はて、どうしたものか……勘の鈍いやつか……
 大体においては、支店長自らが担当せざる負えないとしても、何か問題が起こった時に、あと二人くらいのスケープゴートが必要だ。
 それが大人の処世術というものだろう。
 支店長はおもむろに受話器を取った。
「あ~ツキダ君? プレゼンの準備は出来ているかな? あっ、そう、それは、それは……お弁当の準備も出来てるよね? これから、研修に来る新人君を迎えに行って来るから。それとね。君には彼のお目付け役というのかな? それを担当してもらうから、な~に、研修と言ったって今週一杯の話だから、ツキダ君の本社経験を大いに頼りにしてますよ。という事で」
 ツキダはやっとの思いでトイレから帰って来て、いきなり内線を取ると、面倒な事態が降りかかっている事を知った。
――新人の研修だってえ?
 今日のプレゼンだけでも胃が反転しそうなのに、今週一杯、新人君のお守りだと? 一体、何をすれば良いのだろう……
 それにしても、今どきの新人君は、ずいぶんと甘やかされたものだ。
 支店長がじきじきに、お迎えに行くだと?
 ツキダは自分が新人だった頃の研修を思い出し始めた。
 まだ、あの頃は、政府御用達などでなく、すべてが手探りだった。社長自身もそうだったのだろう。ありとあらゆる事を試していたような気がする。
 ある時は、出社前に、事務所のご近所さん達に奉仕するのだと、言い出して、毎朝六時に事務所付近の公園に集まり、掃除をした事もあった。
 最初、何で就業時間外に、と腹も立ったが、終わってみると実に清々しい気分になった。社会と一体化して、そこで何か会社として役割を与えられているのだと、感じる瞬間があった。まだ会社の中ではな何も出来ないちっぽけな存在だが、会社を離れたら、何かしらの役に立つ事も出来る。いずれ自分も、もっと大きな役割が与えられる、そう考えて気分が高揚したものだった。
 そう言えば、いきなり社長が、
「我が社は世界へ撃って出る。だから世界の展示会に参加する」
と言いだした事があった。
 何の商品を持たない我が社が、どうやって参加するのか、と訝しく思っていると、会場の掃除をする、と言う。
 また、掃除か、と思ったが、やってみると、それは、それで悪くなかった。
 展示会に展示している全ての会社の担当者と接触する機会が得られたからだ。
 もしかすると、社長はそれを狙っていたのだろうか? とてもそうは思えなかったが……
 そうそう、そう言えば、展示会場に出展している担当者と仲良くり始めた我々を見て、急遽、会社案内のパンフレットを配れと命が下ったが、誰も持って来ておらず、バイクで会場に来ていた自分が印刷所にパンフレットを取りに行かされたっけ……
 最初から、誰か準備しておけよ! と思ったが、自分が持って来たパンフレットをみんなで配ることで、何か連帯感のようなものが芽生えた気がする。思えば同期達とは、あの頃、急速に距離が縮まったのではなかったか。
 バイクと言えば、まだ運営したばかりの介護施設に急遽、テレビ局の取材が来る事になった事があった。
 その日に限って、食事が粗末だ、と感じた社長が、急遽、近所の割烹屋に薬膳料理を注文したが、、配達はやっていない、と断られそうになった。
「いえ、うちのものを取りに行かせますから、よろしくお願いしますよ」
 と半ば強引に人数分、注文すると、
「君、よろしく」
 と言われ、自分が何度も往復して、運んだ事があった。
 あの時は、料理の質が良い、と少し話題になったっけ。
 完全にインチキだけど……
 ツキダは、イタズラっぽい笑みを浮かべている。
 そう言えば、社長の知り合いのバイク屋がハーレー・ダビッドソンを買った事があった。
 ずいぶん、ごついバイクだったけど、急遽、社長が「借りた」と言い出して、
「話はつけた。誰かバイクに乗れる人、すぐに行って持って来て! あっ、君、この間、バイクに乗ってたな。うん、君で良い。すぐに持って来て」
 事務所から出る準備をしていると、
「君、ここに帰って来なくて良いから、近くの中学校の周り、走り回って来い。なんなら校庭に入っても良いから、近くの中学生に見せて来い。ちゃんと我が社の名前、連呼するんだぞ! いいか、忘れるなよ。夕方になったら、返して、直帰して良いから」
「えっ? 中学校の周りを走り回るんですか?」
「ああ、これで我が社を覚えた優秀な人材が、将来、入社して来るだろ」
と言われて、近く中学校を回らされた事があったっけ。
 予想に反して、あれは好評だったな。みんな面白がって、集まって来たっけ……
 その後、入って来たってヤツの話は聞かないけど。
 そうだった! これには後日談があって、そんなに喜ばれたのなら、介護施設の老人達にも見せてやれ、と言われて、あの派手なバイクで登場したけど、みんな、ポカーンと口を開けているか、口をモグモグさせて、プイッと横を向く婆さん達が大半で、白けまくってたっけ……
 そうだよ。自分達が若い頃の新人研修って、もっと地域の人達を喜ばせよう、って事だったんじゃないか? こんな末端の支店に来て、仕事中の先輩に面倒をかける行為なんかじゃなかったはずだ。

 ババアがあまりに咳き込むので無理矢理マスクをさせた。
 うつさられては、かなわない。
 一晩開けて、朝、出勤したとき、事務所のドアを開けるなり、尋常じゃない熱気が溢れて来た。
 書斎に入ると、ババアが羽布団にくるまって、咳き込んでいた。
 どうやら、あのまま眠ってしまったようだ。
――迂闊だった。
 やはり私が連絡するか、家まで送って行くべきだった。あまりにも疲れていたせいで、そこまで気が回らなかった。
 彼女の額に手をあてると、少し熱っぽかった。顔も赤い。
 昨日の冷たい海風を思い出した。あれがまずかったのだろう。
「代議士、今日の予定は全てキャンセルにしましょう。今日一日、ゆっくり休んでいて下さい」
「何、言ってんの! 予定は予定よ」
「今日の予定は、それほど重要ではありませんよ。でも、明日の公開演説はそうはいきません。失礼ですが……そちらの準備は?」
 ゆっくりと頭を横に振りながら、ため息をついた。
「仕方ないわね。明日の演説の準備ねぇ……実は全然出来てないのよ。でも、いつもは二、三時間で出来るから……そうね、今日は夕方まで寝ているわ、元気になってから、原稿書くわ」
 そう言うと眠ってしまった。
 寝顔は可愛く見えない事もない。これで、寝顔まで憎らしかったら救いようがない、とも思う。
 今日は彼女が大人しくしてくれそうなので、だいぶ楽が出来そうだと思うと、不謹慎ながら嬉しくなる。
 すぐに、その日の予定を全てキャンセルして、帳簿の整理に取り掛かった。

 気が付くと、あっと言う間に昼になっていた。
――まったく……
 公開用と実務用の二つ付けなければならないので、面倒なのだ。
「シマモ……テレビつけて」
 ババアが目を覚ました。
 一瞬、厄介事が降りかかってきたように感じたが、いつもより、やけに声が小さい。
 相当具合が悪いようだ。
 テレビをのスイッチを入れると、画面には、見慣れた昼の番組が映し出された。
 バラエティ番組だが、生放送がウリの長寿番組だ。
 いったい何十年くらい続いているのだろう? 物心がついた頃には、既にやっていたと思う。たまに生放送ならではのハプニングが人気だったが、最近は、よく統制が取れていて、そのような事はめった起こらない。
 この番組のオープニングは、チラチラと頻繁に画面が切り替わる。その日のダイジェストのようなものを最初に映し出す演出だ。
 帳簿に集中したいが、思わず目が持って行かれる。
 川が映し出された。
 どうやら州境の川のようだ。河原の細い道を中年の男がジョギングしている。この河原の男をずっとカメラが追っている。
 ―何だ? これ?
 見た事があるような気もするが思い出せない。
 次は、魚市場の様子が映し出された。場面が次々と切り変わる。
 魚市場では双子のタレントが待機しているようだ。
――この双子のタレント、久しぶりに見た……
 この番組でしか見たことがない。ちゃんと食って行けてるんだろうか? 片方が何かの瓶をポケットにしまった。
 次にスタジオが映し出された。
 女の芸人が体を鍛える器具? カーボン製の棒を振り回している。この芸人の芸で笑った事がない。かわいそうだが、三流芸人だと思う。この女も久しぶりに見た。
 今日のゲストの席には……女が座っている。
 可愛いけど誰だろう? 見たことがないな。
――何だ、この服装?
 魚市場のおっさんが着ているようなゴム製のエプロンと長靴が一体化したような服を来ている。
 顔がアイドル系なだけに違和感がある。でも、表情はやけにふてぶてしい。
 ババアが、
「なに? この番組? なんか面白そう!」
 と喜んでいる。
 何にせよ、少しは元気になったようだ。
――でも、元気になり過ぎませんように……

 番組が始まった。
 突如、昨晩の後援会で、ババアがローラーブレードを履いて登場したパフォーマンスが映し出された。
 ババアが驚いている。
 冷静に見ると……なんか……やばい。
 彼女は、
「昨日、テレビ局なんて来てたっけ?」
と嬉しそうだ。
「これは、プロが撮った映像じゃありませんね。きっと誰か……あの会場で録画してた人がリークしたんですよ」
 彼女は、喜んでテレビを見ている。
 その後、パーティでババアが宝石を見せびらかしている映像も映し出された。
 司会やゲスト達が、ババアをネタにして笑い者にしている。
 ババアが怒り出すまでカウントダウンしている暇はない。
 私はすぐに受話器を取ると、テレビ局につないでもらい、この取り上げられ方には、完全に悪意が感じられる、と抗議を始めた。
 名誉毀損で訴える、と怒鳴っていると、
「シマモ~……そんなの放っておきなさいよ。良いから、良いから、もう切って」
と言うので、仕方なく受話器を置いた。
 しかし、大物ぶって、ポーズで言っているだけで、内心では腹わたが煮えくり返っているのではないか?
 口では、ああ言っているが、本当はどうしたいのか先読みしなければならない。
「代議士……弁護士に連絡して、訴訟の手続きを致しましょう」
「だからって良いってば。アンタもしつこいわねえ。ネタでも、笑いものでも取り上げてもらえるだけマシなんだから、痛くも痒くもないわよ。それより、アレをあんな風に取り上げるなんて、この番組、センス良いわ。この先も面白そう」
 本当に楽しそうにしているようにしか見えなかったので、大人しく見てもらう事にして、仕事の続きをする事にした。

 番組ではゲストの紹介が始まった。
 さきほど、魚市場のおっさんの格好した女だ。その格好とは不釣り合いに、女の胸元には趣味の悪い赤いネックレスが不気味に光っている。
「今日、お越し頂いていたゲストは、早朝は魚市場で働きながら、ネットではグラビア・アイドルとして活躍されているホノカさんです」
 スタジオ内ではわざとらしい拍手が起こっている。
 ホノカと紹介された魚市場の女が開口一番、何も言わずに、持っていた瓶を口元に持って行き、ゴクッゴクッ、と喉を鳴らしながら飲み始めた。
 司会が、わざとらしい調子で、
「え~と……ホノカさん、今、何飲んだんですか?」
「え? ナンすか? ナニも飲んでませんけど……」
 司会が、
「え? …………」
 一瞬、沈黙した。
 明らかに台本にない反応をした様子で、司会が慌てている。
「あの、ホノカさん? 今、ナニ、飲んだんですか?」
 聞き取れない事がないように、司会がゆっくりと滑舌良く聞いた。少し脅迫じみている。
「だ~か~ら~……ナニも飲んでませんよ~う~。もう~目が悪いんじゃないんですか~」
 魚市場の女が、突然、携帯を取り出して、もの凄いスピードで何かを入力し始めた。
「えっと、何してるんですか?」
「SNS!」
「あの、ホノカさん? あの、この番組、生放送ですから……」
「ですから~?」
 魚市場の女が首を傾けて、わざと可愛らしい声で語尾を上げた。
 司会の目が中空を舞った。ディレクターに何かを訴えているように見える。
「はい、今リプが来ました。はい、わかりました。お答えしま~す」
 魚市場の女が携帯を見ながら、
「え~と~本当のスリーサイズは……」
 カメラ目線で微笑みながら、間を貯めている。
「そんなの言えるか~~! ブログに書いてある数字を信じろ~~!」
 甲高い声を上げた。
 この番組にとって、いわばこのコーナーは看板で、いきなり、切り替えるというわけにもいかないらしい。
 司会が固まっている。
「はい、はい、またリプ頂きましたぁ~……あぁ~~~これな……あった、あった、これな……そう……ちょームカつく! ホノカぁ、前に魚市場で働く前にぃ、派遣で部品工場で働いていたんですよぉ、そんときにぃ~、ズットモになった子から、主任のことディスって、って言われたんで、言っときます。おい! ヤブタ主任! お前なんかノブタだぁ~キャハハハ……ぶくぶく太りやがって、その癖、細けぇこと、いつまでもブーブー言ってんじゃねー、脂でギトギトで、お前なんか手が滑って部品なんて持てねえだろ!」
「あの、ホノカさん、こういう生放送で、その公共の場で、そういう事を言うと、名誉毀損で訴えられますよ」
 司会が汗を拭きながら、忠告するが、まったく意に介していない様子だ。
 魚市場の女がまた高速で携帯に打ち込んでいる。
 とうとう司会も携帯を出して、慌てて、魚市場の女のアカウントをフォローした。
 そこには、『この司会、ちょーうぜえ! ぜぇっってぇ、ディレクターに媚びてるよ』
 など散々な罵詈雑言が打ち込まれていた。
 司会は、いつの間に、こんなに入力したのかと、目を白黒させている。
 司会が動揺する中、魚市場の女が銀色に光る小さなケースを取り出して、フタを開けると、注射器が出てきた。
 司会がギョッとする中、自分の腕に打ち、目を閉じているのか、うっすらと開けているのか、恍惚とした表情をしている。
「な! な……何をしているんですか? ちょっと、あんた何してくれてるの!」
 もう、司会には何の遠慮もない。
「ナニって、ビタミン注射すよ! 一体、何だと思ってるんすか?」
 魚市場の女は、失礼すよ! と、大声をあげ始めた。
「まあ、まあ、ホノカさん落ち着いて……」
 司会が、落ち着きを取り戻し、何とか、自分のペースに持ち込もうとし始めた時、どこから出して来たのか、今度はパイプを咥え初めて、卑猥な感じでパイプを舐め始めた。
 司会の目が点になっているのを見ると、魚市場の女が嬉しそうに豪快に笑い始めた。
 もう、この世のものとは思えいないほどのハイテンションになり、甲高い声で早口で話すので何を言っているのか、さっぱりわからない。まるでイルカの話を聞いているようだ。
 司会がやっとの事で自分の口から言葉を引きずり下ろし、
「あ……ホノカさん、げ、元気ですね」
 と言うや否や、
 魚市場の女が、また銀色に光るケースを出して来たが、今度は、手がすべって床に落としてしまった。
「アンタが元気ですねって、羨ましそうな目で見るから、親切で打ってあげようと思ったのに、叩いて落とすって何事すか? このビタミン注射、結構~高いんすよ!」と怒り出した。
 司会が「いえ、私、叩いてませんよ~も~何とかして下さい」
 本当に涙目になっている。
 魚市場の女が、
「冗談すよ、そんな事もわからないすか」
と言いながら、机の下に落とした注射器を拾って、司会に打とうとした時、司会が動揺して、思いっきり彼女の手を振り払った時、勢い余って彼女の胸辺りにぶら下がっていた大きな趣味の悪い赤いネックレスの鎖がちぎれて、床に落ちた。
 そのネックレスはガラス製だったらしい。
 魚市場の女が席から立ち上がり、ネックレスを拾いに行く姿をカメラが追っている。
 彼女が屈んだ先が映し出されると、その辺には赤いガラスの破片が散らばっていた。
 魚市場の女はその破片の中に何か異物を見つけたようだ。
 その異物を拾いあげる時、カメラを意識して胸の谷間を強調するような仕草と上目遣いでカメラを見た。
 拾い上げてから、その異物をマジマジと見て、
「これ、何すか?」
 と司会の方へ持って行った。
 司会は、自分がやった事に怯えて、逃げ腰で席から半分以上尻を浮かせながら、顔だけ、魚市場の女が差し出した異物を見て、
「何か……メモリチップのように見えますが……あの……すみません、わざとじゃありません……」
 魚市場の女は、なるほど、と納得したように、何度も頷きながら、そのメモリチップを見ながら、ゴムのエプロンのポケットから、またオープニング早々に飲んだ瓶を出して、ゴクリと飲んだ。
 司会は、また台本に戻れる、とでも思ったのだろうか? 反射的に嬉々としながら、
「今、何を飲んだんですか?」
 魚市場の女は、意地悪そうに薄ら笑いを浮かべながら、
「えっ? ……だ~か~ら~何も飲んでませんよ~~」
 と、言った後、よほど可笑しかったのか、高笑いをして、番組は、いきなりCMに切り替わった。

 CMが終わり、番組が始まった。
 ゲスト席から、あの魚市場の女が消えていた。
 いきなり、夕方のゴールデンタイムに放送される予定のドラマの宣伝が始まった。
 司会も、さきほどの魚市場の女に関して、一言も触れずに番組が進行して行く。
 なかった事にする気だろうか?
 それとも、ああいう演出? そうは見えなかった。
 ババアが、
「あの子、どうなったの?」
と聞いてくる。
「さあ、私は見てなかったので……」
「ウソ! 見てたでしょ。あの黒いゴムの子よ。あの子どこ? あのゴム脱いだら、わらからなくなっちゃったのかしら」
――煩い……
 そんなの知らないし、どうでも良い。とにかく、あの子は画面から消えたのだ。それで良いじゃないか。
 ババアのせいで、書斎の中は暖房が効き過ぎて、むっとする暑さだ。
 私だけ、ブラウス一枚で汗をびっしょりかいている。
 伝票を見ながら、パソコンにデータを入力していた……はずだったが、確かに、ついつい目がテレビに持って行かれていた。
 ババアも、夢中で見ていたようで、いつもなら、シマモ~手が止まってる~、くらい言いそうなものだが、まったく気付いていなかった。
「もう~何? このドラマの宣伝! 興味ない。今晩は宇宙中継、見るんだから!」
――えっ、そうなんだ。宇宙中継やるんだ。
 ネットでテレビ欄を確認すると、ホントだ、今夜、月面着陸の生放送なんだ。何か久しぶり。

 テレビでは、レポーターが鏡張りの楽屋に来ている様子が映し出されていた。
 ドラマ撮影の合間の楽屋に潜入している、という演出らしい。
 鏡を背にしている役者に向かって、どうでも良いことをインタビューしている。
「見どころは?」なんて聞いても、こいつらにわかるわけがない。
――監督に聞け! 監督に!
 今度は、共演者の印象か……そんなの本人の前で、「下手過ぎて参ってます」とか、言えるか!
 当り障りのないヘラヘラしたやり取りが、永遠に続くように思えて、気が遠くなる。

「ねえ! シマモ、ちょっとテレビ見てよ! さっきの頭のおかしい子、この楽屋にいる?」
 暫く見てから、
「いませんねえ」
――いるわけねえだろ! ドラマとは何の関係もないんだから。
 そう思いつつも、ドラマの宣伝の演出で、もしかしたら、紛れ込んでいるのではないかと、探してしまう。
――もう! 魚市場のアイドル! 早く出て来てよ!
 出て来てくんないと、仕事になんないよ。
 突然、ババアが、
「ねえ、さっき、何、飲んだか、電話して!」
「えっ?」
 この人、何を言っているの? 電話ってどこに?
「ほらっ、シマモ、早くう! テレビ局に電話してえ!」
 ババアが金切り声になって来て煩い。
 顔を真っ赤にして、鼻の頭に汗をかいている。
――ちょ、ちょっと落ち着いて顔でも拭いてくれ。
 一体どうして、こんなに焦っているのだろう。
 私がすぐに何らかの反応を示さないのに苛ついているのだ。
 取り敢えず、すぐに受話器を持ち上げると、少しは落ち着いた。
「さっ、早く、テレビ局に電話して、あの子が何飲んでたのか聞いて!」
――それにしても、気になってたのは、そっちかよ!
 あの女が何を飲んでたか、なんてどうでも良いよ。
 私はあの魚市場の女が気になるよ。

 レポーターが、一通り役者達にインタビューを終えると、スタジオにカメラが戻って来た。
 どうやら突然戻って来たらしい。
 司会が一人で、マイク越しに、誰かと話している様子が映し出されていた。
 ディレクターとでも、話しているのだろうか?
 まだ、気づかないで話をしている。
 ゲスト達は、気づいてカメラ目線になったが、司会はまだ気づかない様子だ。
 音声は聞こえないが、司会が眉間にシワを寄せて、不貞腐れている様子が映し出されていた。
 明らかに段取りから外れているらしい。
 やはり、魚市場の女の破壊力は大きかったのだ。
 司会がカメラに気づいて、表情を整えた瞬間、また、カメラが楽屋の役者達に戻った。
 本当に今日はせわしない。

 ババアがもの凄い馬鹿力で、昨晩から抱いていた、ぬいぐるみの耳を引きちぎって、怒鳴り始めた。
「もう、何なの! 良いから、さっきの頭がおかしい子、出せ! お前らの顔は見たくない!」
 私は、レポーターが役者達にまたインタビューしているの横目に電話をかけている。
 今度は、なかなか繋がらない。
 全国のババアみたいな連中が一斉にクレームの電話を入れているのだろうか?
 早くしないと、ぬいぐるみのもう片方の耳がなくなってしまう。
 やっとつながったが、相手は、何も飲んでいません、の一点張りで、放送事故のお詫び、を繰り返すだけだった。
 そんな返答で、ババアが納得するわけがない。

 ドラマの楽屋からスタジオにカメラが戻って来た。司会のマイクの音声も戻っているようだ。
 司会が三流芸人の女の名を口にした。
 いきなり画面が真っ暗になったかと思うと、スポットライトが照らされた。
 スポットライトの先に、ヘビメタの格好をした三流芸人の女が映し出された。
――さっきオープニングに出ていた芸人だ……
 でも、この芸人って売れていたっけ?
 そういえば、三年以上前に、何かの芸で一世風靡したような気もするが……全く思い出せない。とにかく頻繁に芸風を変えている、という印象があるが、毎回、メークが替わるので誰かと勘違いしているかもしれない。
 三流芸人の女が、ムチでスタジオの内の床をビシビシと叩き始めた。
――これ……面白いのか?
 いきなり司会の足元の近くにムチが走った。
 いつの間にか、司会にもスポットライトがあたっている。
――これって、昼の番組だよな。いいのか?
 三流芸人の女が、ムチの柄を司会の顔にぐいぐいと押し付け始めた。
 この司会も今日は散々だな……と同情する。
――そういう芸か?
 踵を返して、三流芸人がカメラ側に迫って来た。
 別のカメラが、三流芸人が今まで映していたカメラマンとカンペを持っているアシスタントらしき青年達をムチで打ち据えて行く様子を映している。
 こいつらには、本当にムチがあたっているように見える。
 アシスタントらしき青年が立ち上がろうしたが、足が痺れたらしく、転倒した。
 背景音に、ゲラゲラ、とわざとらしい観客席の笑い声が入って来る。
 しかし、一瞬、映し出された観客席……
 そこに座っている人達は、皆一様に三十三間堂の観音像のように固まっていた。
 ほとんどが主婦と学生らしい連中で埋め尽くされていたが、彼らの表情は固く強張っていて、笑顔の者など、一人もいない。
 完全に引いている。
 尚も、執拗に、三流芸人のムチが凄まじくなって行く。ほとんど、もうヤケクソになっているように見える。
 引き返せないところまで来たので、もう、アクセルを一杯に踏み込んで、その向こう岸に、勢いで飛んで行こうとしているのだ。

 その時、ふと気が付くと、皮のソファで寝ていたはずのババアが、クローゼットを開けて、何かを物色しているのに気づいた。
「代議士! 何、なさっているんですか?」
「シマモがちゃんと聞いてくれないから、ちょっとテレビ局に行って来るわ~」
「何、おっしゃってるんですか? 寝てなきゃダメですよ。明日の原稿、まだ終わってませんよね。それに、このテレビ局、サカオガワ州の局ですよ。今から行って帰って来たら、夜ですよ。とにかく、これから何度も電話しますから、寝ていて下さい。さっ、代議士……」
 私はやっとの事で彼女を寝かせた。こういう時にヘタに行動力があるというのは厄介だ。大体どうして、そんなに飲み物の事が気になるのだろう。
 私は、あの魚市場の女の方が気になっていた。本当にあの女は、気が触れていたのだろうか? やけに確信犯的な、それに、おかしな行動をする直前に携帯を見ていたのも気になる。

 ツキダはテレビを見ながら、女代議士の宝石に目を奪われていた。
――いつもながら派手なパフォーマンスする女だなあ……あれっ!
 カメラが一瞬、よく知っている人物を映したような気がした……が、気のせいか。
 ツキダは、何気なく、不安な気持ちを払拭しようと、たまたまつけたプロジェクターに映しだした昼のバラエティ番組を見て、釘付けになっていた。
――さっき、あの女が飲んだのは何だろう?
 酔っているようには見えなかった。恐らくシラフだろう。シラフであんなにテンションが上がるなら、自分も飲みたい。
 役者のインタビューの当たり障りのないコメントばかりで、面白くなくなって来た。チャンネルを変えようか。
――あれ? この三流芸人の女……誰だっけ?
 数年前に見た事があったような……
 と、その時、世界が一回転した。
「あっ……つつ……」
 どうやらケーブルに足を引っ掛けたらしい。テレビに夢中になり過ぎていたようだ。
――しまったあ!こうしてはおれん!
 まだ、全くプレゼンの準備が出来ていないのだ。
 ツキダが、胸ポケットから支持棒を取り出して、先端を最大に伸ばして、プレゼン前の気分を盛り上げようとした。
――う~ん……この三流芸人、面白くないな。
 番組も白けているようだ。
「もっと、こうだろ! こう!」
 ツキダはいつの間にかテレビを見ながら、支持棒でスクリーンを叩き始めている。


「だーがーらー、この政治家の女の子、なぁにーー?」
 大きなビルの管理室で、眼鏡をかけた中年の小男がテレビ局に抗議の電話を入れていた。
 同僚の若者にICレコーダーで録音させている。
「つまりさ~、どうして、この政治家の女の子、こんなにじゃらじゃら宝石つけられるわけ? おっかしいーだろ! って言ってんだよあ!」
 小男はビルメンテンナスの仕事をしてから長い。
「だーがーらー、俺達の汗水垂らした税金が使われてるわけでしょ!」
 ビルメンテの男は、オープニングが始まってから、ずっと抗議しており、もう番組は見ていなかった。
「そうだ! いかに、我々があ……地味な仕事をして日銭を稼いでいるかあ……これから、お見せしますからあ。私、これから地下の設備室に向かいますからあ。それで、こと細かに実況放送しますからあ……ちゃんと聞いていて下さいよう? それで、いかに、あの政治家の女の子と我々の生活が違うかあ、あなたの肌で感じ取って下さいよお」


 スポーツジムでランニングマシーンに乗って走っている筋肉質の男が、走りながらテレビ局に抗議に電話を入れていた。
「あのね、ちょっと最初の女、何? いきなり、心臓に悪いわよ! アタシの血圧が、もう、ピュー! って、もう、ピュー! って上がっちゃったわよ! アタシは、和気藹々とした気分で、いつも見てたのよ! どうしてくれんの? 絶対、アドレナリンがいーぱい、ピュー! ってピュー! って出たわよ」


 仕事を休んで、庭で大工仕事をしていた男は、口に釘をはさんで、本箱でも作っているのか、一心不乱に金槌で打っていたが、汗で手がすべり、なかなか作業が進まなかった。そんなに暑い日ではなかったが、一度かき始めると汗が止まらない。
「あっ!」
 金槌を振り下ろした時、手がすべって、板を叩いてしまったらしく、カッパリと割れてしまった。
――仕方がない……
 男は庭から、居間の窓ガラスを開けると、
「お母さん、ちょっとホームセンター行って来るわー」
「あっそ……あっ! じゃ、悪いけどガソリン入れておいてぇ」
――また一つ、仕事が増えた……
 男が車にエンジンをかけると、確かにホームセンターに辿り着けるか、ギリギリの燃料しか入っていなかった。
――もっと早く入れとけよ……
 近くのガソリンスタンドで給油してもらっている間、缶コーヒーでも買おうと、自動販売機に行くと、近くのテレビに見覚えのある女が映っていて、ギョッとした。
「……前に魚市場で働く前にぃ、派遣で部品工場で働いていたんですよぉ、そんときにぃ、ズットモになった子から、主任のことディスってって言われたんで、言っときます。おい! ヤブタ主任! お前なんかノブタだぁ~キャハハハ……ぶくぶく太りやがって、その癖、細けぇこと、いつまでもブーブー言ってんじゃねー、脂でギトギトでお前なんか手が滑って部品なんて持てねえだろ!」
と叫んでいる。
 ヤブタは、缶コーヒーをつかみ、タップルを引き上げようとしたが、手汗のために何度も空振りした。
 暫く唖然として見ていたが、CMに入った途端、車に引き返し、携帯を持って来ると、猛全と抗議を始めた。
「冗談じゃない! 使えない女を我慢して使ってやって、上司からの追求にも最初は、かばってやってたのに、いつまでも、いつまでも仕事は覚えねぇわ、口答えはするわ、年がら年中、ズットモだかセフレだかわからねえけど、ベチャクチャしゃべりやがってぇ……しかも無断欠勤で勝手にやめやがってぇ……もう~勘弁ならん! 訴えてやる!ってあの女に伝えろ!」


 ガソリンスタンドにスポーツカーが止まった。車の中の小型テレビには昼の番組が映し出されていた。
 高級そうなブランド物の服を着た女が車から降りると、ガソリンスタンドの店員は勿論、店内で給油待ちの人間も目を奪われた。若干一名だけは大汗をかいて、それどころではない様子で携帯の相手を怒鳴りつけていた。
 女が店内で携帯をかけ始めた。
「ね、今の見てた? これ、アタシが出る予定だったオープニングでしょ。昨日、いきなり降板になったヤツ……どうして、アタシがあんなド素人に仕事を取られたわけ? どう考えたって、マネージャの腕を疑いたくなるわよ。オマケにあの子、ちゃんと注文通りの芝居も出来てないって感じよ。そうでしょ? アタシ、間違ってるかしら?」


 乱雑に積まれた書籍に埋もれた狭い一室、廊下の表示プレートには『テグレ研究室』と書かれていた。
 テグレ教授は、院生にビデオカメラを持たせて、自分がテレビ局に抗議の電話をしている様子を撮影させている。
「あのね、その、政治家の子も、最初のオープニングの子も別に良いですよ。うん、可愛かった。でもね、三流芸人の女は頂けない。昼間っから、ムチはいかんでしょ。それに、あのムチ、スタッフに当たっちゃってますよね。ああいうの教育上、良くないな~、あっ、申し遅れました。私、大学で日本語を教えているんですけどね。著書も出してますけどね。タイトルですか? 『旋律がなくても詠える日本語』……えっ? 知りませんか?」


 ダンススタジオの中でステレオから大音量でピアノの音が流れている。
 さっきまでランニングマシーンでたっぷりと汗をかいた筋肉質の男が、タンクトップのまま、まだ携帯で抗議を続けている。
「は~、は~……ちょっとアレだわ、もしかしたら、全然、伝わらないかもしれないけど、は~、は~、このアドレナリンを出したくない時に出させられてしまった、その残念な気持ちをダンスで表現するから、ホントは見て欲しいんだけど、雰囲気だけは伝わるかもだから、よろしくね……」
 鏡に全身を映しながら、この表現者は必死で何かを伝えようとしていた。


 文化会館で踊りの稽古を終えた、着物姿の老婦人が、待合室のテレビでムチを振るっている女を見ると、顔を真っ赤にして、テレビ局に抗議を始めた。
「とにかく、とにかく、やめさせて下さい。今、せっかくお師匠さんに褒められて、気分が良かったのに、何もかも、ええ、何もかもぶち壊しですよ。あなた。早く、あのムチの子を映さないで下さい!」


 乱雑に散らかった一室から、ビデオ録画させている院生と一緒に、廊下を出たテグレ教授は、
「じゃあね、今日は、特別ですよ。あなただけに特別に、『音程がなくても詠える日本語』のイメージをお伝えしますから、ちょっと待って下さいね。今、音楽室に移動中でえす……はい、すぐですから、そこに行くとピアノがあるんです。はい、隣の隣なんで、すぐです。はぁ、はぁ……」
 テグレ教授と院生が猛烈なスピードで廊下の端から端まで走っている。
 廊下の奥の突き当りのドアを開けると、黒く光るグランドピアノがあった。
「はい、着きました。すぐだったでしょ? はぁ、はぁ……はい、いま、開けます。はい、開きました。音はツェーだったかな?」
 テグレ教授は指一本で音を鳴らしながら、歌い始めた。
「ニゲロ! ニゲロ! ニゲロ! キケン! ミーレバ、ワカーール! チカーノチーズー、ネックレスのなーかー、裏切り者は~逃がさない~」
 まだ、指一本で同じ音を鳴らしながら、ゆっくりと演奏を終わらせた。
「あのね。これ、良い感じで、伝わったと思いますから、動画のサイトにアップしておきますから、なるべく、みんなに伝えて下さいよ。特に、魚市場の女の子、あの子に伝えて欲しいな~、ね、何とか伝えて下さいよ」
 日本語学者は、かなりしつこく念を押してから電話を切った。
 ビデオ録画させていた院生に、
「じゃあ、これ、私の方でアップしておくから、どうも、ありがとう。助かったよ」
 院生が研究室を出て行くのを確認すると、大急ぎで窓際に駆け寄った。
 窓際には、コスモスの一輪ざしが置かれている。
 暫くそのまま窓から外を眺めていたが、何の合図も帰って来ない。
――ヤツはいないのだろうか?
 深いため息をついた後、部屋の中を落ち着きなく、行ったり来たりし始めた。

 ババアが大声で呼んでいる。
 万年筆のインクが切れたから代わりのペンを持って来い、と言っている。
 引き出しから書きやすそうなボールペンを見つけて渡すと、熱で赤くなっている顔をさらに赤くして怒りだした。
「何これ? ……こんな安物で書ける人の気がしれないわよ。アタシがペンと言ったら、パーカーのヤツって決まってるの! シマモ、あんた、アタシの秘書なんだから、それくらい覚えておきなさい!」
 かなり興奮している。何がそんなに違うのか?
 このボールペンの方が、その何とかというペンより、よっぽど腕に優しく設計されているのに……
 それに今どき、何で万年筆? 後で、どうせパソコンに打ち直すのだから、二度手間なのに……
 書き味がこれでないと原稿が書けない、と言っている。
――万年筆に書いてもらっているのか?
 いつもは、その万年筆なんて使っていないのに。原稿を書く時だけなのだ。それでは、いつもは何も考えていないみたいじゃないか……
 ぞっとした……
 それなら、メモ書きも、その何とかという万年筆で書いて欲しい。そうすれば、日頃の秘書たちの混乱もだいぶ収まるのではないか。
「もう~、シマモ~、まだ~」
 来賓者の土産用に用意してあったのを思い出して、その万年筆を渡すと、やっと静かになった。
 しかし相変わらず明日の公開演説の草案は捗らないらしい。万年筆を握った後もイライラしている。来賓用ではご利益がないのか?
 他の事務所では、秘書に草案を書かせている代議士もいるらしいが、ババアが私を含めて他の秘書に書かせたのを見た事がない。
 大抵の事は人任せの女だったが、勧誘活動と演説の原稿だけは誰にもやらせなかった。
「ゲホッ! ゲホッ! あ~~ゲホッ! ……」
 ババアが咳き込み始めたので振り返ると、煙草を吸っていた。
「代議士! 普段吸わないのに、何で、こういう時に吸うんですか?」
「えっ? シマモ、風邪引いてるか確かめる時に吸わない? うん、まずいわ、これは完全に引ちゃってるわ、あっ、そうだ! シマモ、テレビ局に電話……」
――まだ言ってるし……
 ババアが煙草の火を消して、布団に潜り込んだ。
――ふ~、今度はしつこくない。少し眠りそうだ。
 その時、ババアの携帯電話が鳴った。
――チッ!
 彼女が出ると、
「あ~ら~先生、お久しぶりです。えっ? テレビ見た? ま~お恥ずかしい……ホホホホ……そんなの無理ですよ。今さら芸能人なんて、子供の頃よく近所で滑っていたの思い出して、ちょっと支援者の方々を喜ばせようと思っただけですよ。えっ、宝石? 羽振り? 羽振りなんて良くありませんわよ。全部、先代の形見ですよ。……はい、そうですね。明日の公開演説、お互い正々堂々と頑張りましょう、はい、えっ? 声変ですか? いえいえ、大丈夫です。気のせいですよ、はい、明日は勝負ですよ! はい、お手柔らかに、はい、よろしくお願い致しますぅ……」
 携帯を切るなり、耳が引き千切られたぬいぐるみを私に目掛けて投げて来た。
「チクッしょ~~~! あっ! シマモ御免、大丈夫?」
 どうやら電話の相手は明日の公開演説で戦う事になるタカ派の代表だ。
 あちらはサカオガワ州が持っている水利権の完全譲渡を訴えている。
 彼女は、共有の道を探っていた。タカ派はそれは夢物語だと主張していた。
「くっそ~! アタシ、どうかしてたわ、休んでる暇なんてないわ、原稿、終わらせてから、休めば良かったのよ。アイツらに負けるわけにいかないわ。くっそ~! 舐め腐りやがって、奴らの運動が調子づくと、ますます酷い事になるのが、わかんないバカ共ばっかりよ。連邦に操られているのがわからないのかしら……」
 ババアが皮のソファから起き上がり、机に向かって原稿用紙を広げ始めた。
 ソファに寝たままで口述筆記でも良い、と思うが、机の上でないと、まとまらないらしい。
 せめて書いた草案を秘書にタイピングさせれば良い、と思うが、タイピングも自分でやらないと、後で編集が出来なくなるらしい。
――私は何のために待機しているのか? テレビ局に電話するだけなら帰りたい。
 こうなると、また寝かせるのは至難の技だ。暫く放っておくよりない。
 しかしやはり、まとまらないらしい。破っては床に捨ててを繰り返している。
――くっそ~!後で掃除するのは私だよ。
 彼女は、やはり、かなり参っているよう、結局、十分も経たないうちに、ソファに戻って来て、布団をかぶって横になってしまった。
「シマモ、あの雑誌、出てたわよね、取って来て」
 書けないのなら、黙って寝ていれば良いのに、今度は何かを読もう、というのだ。
――この雑誌……
 渡すのは気が進まなかったが、包装ビニールを破り、その評論誌を渡した。
 その雑誌は、政治家の演説内容を掲載して、識者と言われている学者達が評論している。
 選挙民は、自分自身が政治家の主張にのめり込んでいないか、と心配になった時に、この手の雑誌を手に取り、自分の意見とするのだった。
 彼女は暫く、熱心に読んでいたが、案の定、雑誌を床に投げつけて、顔を真っ赤にして肩で息をしている。
「は~は~……コイツ、全っ然、わかってない、これで学者かよ! 論理的に出来るか、出来ないか考えても仕方ないのよ。やるの! やるの! やるの! やるの! やるの! ……」
 その後、散々喚き散らしていたが、やがてが大人しくなった。
 一瞬ホッとしたが、この後、大抵おかしな事を言い始めるので油断できない。
 案の定、
「ねぇ……シマモ~、この雑誌の出版社さあ~、買っちゃうか」
 始まった!
「あの~、その調子で、出ている雑誌の出版社、買って行くと、大変な事になると思いますけど……」
「も~、冗談よ~、シマモ~、そんな事するわけないじゃない」
――いや、半分以上マジだったでしょ!
 また大人しくなって、何か考えて込んでいる。また突飛な事を言い出しやしないか、と落ち着かない。
 ババアが携帯を取り、電話をかけ始めた。
「あっ、先生? ちょっと、良いかしら、あのねえ、え~と、今月号の評論誌、読んだ? えっ? 読んでない……そう……とにかく、内容が酷いのよ。こんなの、野放ししていると、何を言っても無駄だからさ、この学者先生、訴えるから、ちょっと告訴状書いておいてよ。うん、もしかしたら、訴えないかもしれないから、まだ先方には送らないで、告訴状だけ書いておいて欲しいの。それじゃ、よろしくね」
 どうやら、弁護士の先生に電話していたらしい。この世界はあっちもこっちも先生だらけでややこしい。こっちのは顎で使う方の先生だ。
「ふ~、シマモ~、今日も爺様方が集まって来て、くっちゃべってる時間だから、あれ持って来て」
 どうやら盗聴機のことを言っているらしい。
 まったく、この人は大人しく寝ていれば良いのに……
 スピーカーから爺様方のおしゃべりが聞こえて来た。
「だから、ワシは言ったんじゃよ。あのテレビは何だ? 誰が、あの絵を局に流したんじゃ、そいつを捕まえるのが先決じゃ」
「あれは、かなりのイメージダウンじゃて。姫も、もうお仕舞いじゃな。身内で遊んでいる分には茶目っ気で済むが、全国放送されてはまずい。完全に権威の失墜じゃよ」
 どの爺の声も同じに聞こえるが、言っている内容は、さっきのテレビで報道された様子が問題になっているらしい。
 ババアの顔色がまた赤くなって来た。
「どいつも、こいつもバカにしやがってぇ……」
 さらに会長の決定的な一言が彼女に追い打ちをかけた。
「あの~……実はさきほど……一人、支援者が脱会を伝えて来た……」
 場が騒然としている。それもそのはずだ。
「誰ですか?」という声に会長が答えた名前は、後援会の中でも二番手のスポンサーだった。
 彼女は、その名前を聞くと余程堪えたらしく、
「は~~~」
と全身の力が抜けたようにグッタリと横たわっている。
「もっ、良いわ……それ、止めて……」
 私は慌ててスピーカーのスイッチを切った。
 やっと大人しくなったが、布団を頭からかぶり、表情が見えない。
 こうなると、日頃、憎らしいババアも可哀想に思えて来る。
 私は恐る恐る、ずっと、言い出せずにいる提案をしてみる事にした。
 下手をするとまた、逆鱗に触れかねないので、勇気のいる提案だった。
「あの~、代議士……もし、なんですけど~、もし、どうしても調子が悪かったら、明日の原稿、草案だけでも私が書き……」
「そうだ! シマモ! えっ、何? ま、いいわ、テレビ付けて、映画でも見て、気分転換するわ」
 完全にタイミングを外された。
 もしかすると、意図的に外されたのではないか、とも思うので、もう一度、言う気にはなれない。

 テレビをつけると、まださっきのバラエティ番組が続いていた。
 慌てて、チャンネルを変えようとすると、司会が、
「え~、さきほどの魚市場で働いているホノカさんですが……ちょっとカウンセラー・ルームに行かれたようです」
 ババアが、
「チャンネル変えないで!」
――確かに気になる。
「ちょっと、その、いろいろと視聴者の方にご心配おかけしてすみませんでした。たくさんの方々から、お電話を頂いたようでして、ありがとうございました。え~、彼女も複雑なようで、やはり、ここは専門の先生に見ていただくのが良いですよね」
 司会が、スタジオに来ているゲストに話を振った。
 ゲストの一人の若い男が、堰を切ったように話し始めた。
 画面の下に略歴が表示された。NPO法人代表と書かれている。
――何のNPO?
「私もね、以前、カウンセラーのお世話になっていた事があんですよ。ホノカさんも是非、長期的な視点で治療に専念された方が良いですよ。でもね、これ、治療って言っても完治するわけじゃないんですよ。定期的にメンテンナスしていかないとね。その何て言うのかなあ……頻度、そう頻度が減って行くだけなんですよ。もうずっとある程度、お金がね……」
 NPOがお金の話で口ごもった瞬間を捉えるかのように、話の途中だったが、画面から外された。
 司会が話を変えようしたが、NPOが必死に画面に割り込んで来る。
「ええ、ええ、自分のメンタルは強い、家族にもおかしな人はいない、そう信じていても、メンタルって鍛えたり、そもそも強い、弱い、というのがあるわけじゃないですからね……」
 司会が、別のゲストに、
「さきほどのドラマに出ている役者さんで、特別に気になってらっしゃる方って、いますか?」
 話を振られたゲストにカメラが向けられる。
 ゲストは、NPOから離れた席に座っているようだ。
「えっ? ええ……そうですね。私が特別に気になっているのは……」
 突然、そのゲストが映っている画面にNPOが割り込んで来て、あの瓶を取り出して、ゴクっと飲んだ。また、スタジオの中が冷たい空気に包まれた。
 ババアも身を乗り出している。
 NPOが、何か言おうした瞬間、マイクの音が消えた。口だけ動いている。
 ババアが、
「何だって?」
と聞いて来たが、読唇術が出来るわけではないので、何を言っているのかわからない。
 その事に気づいたNPOが激怒した様子で、スタジオから出て行く様子が映し出されていた。
 横でババアが、
「も~、だから何ぃ? もう! 何飲んだの~!」
――あ~、また煩くなりそうだ。

 スタジオの脇で、三流芸人の女が、クスン、クスンと鼻をすすりながら、台本を読んでいる。
 ムチの芸のウケが悪く、苦情が殺到し、そのダメージを引きずっているのだ。
 渡されたばかりの台本の内容を必死で頭に叩き込もうとしているが、なかなか集中できないでいる。
 少し、気分転換をしようと、SNSを見ると、
「サイテーー!」「下品スグル!」「昼飯がまずくなったあ!」など、散々な内容が書き込まれていた。
 涙で台本の文字が霞む、ますます台本に集中できなくなった。見なきゃ良かった、と後悔するがもう遅い。一人くらい肯定的なコメントもあるのではないか、と思った自分が甘かった。

 テレビ局のモニター室の中では、番組のディレクターが事態の鎮圧に手を焼いていた。
 番組が始まるや否や、アシスタントに歯ブラシを持って来させている。
 モニター画面を見ながら指示を出し、その合間に必死で歯を磨いていた。
 この男にとって、歯磨きは、気持ちを落ち着かせるために欠かせないものだ。
 いつもなら数分も磨けば、落ち着きを取り戻し、冷静になる事が出来たが、今日は、番組が始まってからというもの、磨く手に休まる暇がない。
 青白い肌が汗ばみ、目と歯だけが不気味な異彩を放っている。

 スタジオの観客席に座っているオーディエンス達のほとんどが、自分の携帯を操作している。周りの目を気にする様子もなく、打ち込んでいる者もいる。
 奇妙な現場に居合わせて興奮し、リアルタイムで友人達に伝える者、視聴者の反応が気になり、確認している者など用途は様々だ。
「やっぱり、さっきの魚市場の子、どうしたのか? って話題になってるわよ」
「こっちでは、NPOの人って、カウンセリング協会の回し者だって、書き込んでいる人がいるわよ」
 方々で、ぼそぼそと観客同士で情報交換を始めている。
 アシスタントが、
「すみません! 携帯は弄らないで下さい! そういう約束ですよね。出て行ってもらいますよ~」
 と言っているが、まったく効果がない。その理由で外に出したとしたら、観客席には誰も残らないだろう。
 携帯をいじりつつ、はしゃいでいるのは良い方で、妙な緊張感を感じて汗を薄っすら浮かべている者もいる。
 会場の空気が熱気を含み、異常に暑くなっている。
 熱気にあてられて、何人かが額の汗を拭っていた。
 汗を拭った者の中には、何度もこの手の会場に参加しているベテランで、いわゆる笑い屋というパートを演じている者もいる。大げさに笑う事で、周りの素人の笑いも引き出す役割を担っている。
 しかし、今日はスタッフ達の動揺が、いつもと違う事に気づき、自分には関係ないと思いながらも、何か不吉なものを感じて、緊張せずにおれないのだった。

 ディレクターの携帯が振動した。
 いつもなら、チラっと確認して本番中は無視するのたが、今回は慌てて出た。
「はい、はい、ええ、申し訳ありません。はい、今日は、この企画、ボツにします。はい、はい、……」
 電話の主はスポンサーだった。普通ならプロデューサーの頭を越えて、ディレクターに直接、指示を出すのは越権行為だが、番組が生放送である事と、彼の場合、いわゆる出資プロデューサーの一人だった。
 声から必死に冷静を装っている様子が伝わって来たが、かなりの怒気を含んでいる。
 ディレクターは首にタオルをかけ、止まらない汗を何度も拭きながら、歯ブラシを歯にあてる。
 歯ブラシが口に入っている事で、たまに、へい、と横柄な感じになり、慌てて歯ブラシを口から出して、また丁重に、はい、と相槌を打ち直す。
 携帯を切ると、急いでアシスタントにメモを渡した。

 司会が、三流芸人の女に呼びかけた。今日は、三流芸人の女が便利に使われている。他に適当なゲストがいないらしい。
 カメラが書斎のようなのセットを映し出した。その中で、三流芸人が机を前にして座っている。
 三流芸人の後には大きな本棚があり、本棚の中にはびっちりと隙間なく背表紙で埋め尽くされている。
 木製に見える机の上にはうず高く、辞書のような分厚い本が積み上がっている。
 クラシック調の曲がバックで流れ始めた。
 三流芸人の表情も先程とは、かなり雰囲気を変えて、落ち着いた表情だ。口角が上品に上がり、育ちが良さそうな雰囲気を出している。
 落ち着いた雰囲気の中、三流芸人が、声のトーンを抑え気味に話し始めた。
「先程は大変失礼致しました。お昼の番組ながら、大変お見苦しい芸をお見せして申し訳ございませんでした。そして、たくさんのクレーム……大変ありがとう御座います……」
 三流芸人の女が一礼した。
 暫く間を置いた後、少し声のトーンが上がり明るい調子で、
「さて、気を取り直しまして、次は魚市場の様子をお伝えします。ただいま皆様のご要望どおり、知的な感じでお伝えしております……」
 三流芸人の女がカメラをまっすぐ見据えたまま沈黙した。
 そして、一気に沈黙を破り、声を荒らげて、
「って! 本がバックにあれば、知的ですかあ! これで良いのか~! 見てみろ、ほら、本に見えるけど……」
 本棚の背表紙を引っ張りだした。
「本棚にガッチリくっついて、中身はスカスカなんだよ。映ってるの背表紙だけ、だ、か、らぁー!」
 テレビ画面が、魚市場に切り替わった。

 まるで国際会議場のような大会場で、何かの式典が行われている。
 各州の要人が数百人集まり、仰々しい雰囲気の中、ある老人が、連邦議長から勲章を授与されている。
「貴殿は、前の改革において、和平の為、多大なるご尽力された事をここに認め、連邦国家はこれ表彰する……」
 老人はを議長から胸に勲章を与えられた。その厳かなやり取りとは裏腹に、老人の表情は重い。心ここにあらずという感じだ。
 既にボケているような雰囲気も漂わせている。
 大昔は何らかの功績を残したのだろうが、現役を退いて何十年も経っているように見える。
 老人が席に戻ると、次の功労者の名が呼ばれた。
 老人が勲章を有難がっているようには見えない。何か落としたボタンを付けてもらった程度にしか、感じていない様子だった。
 老人のそばに、付き人のような男が慌てた様子で近づき、何かを耳打ちした。
 その途端、たちまち、それまで血の気を失っていたような顔色がみるみる上気していく。
 かなり、しっかりとした調子で席を立つと、急用で式典を抜ける非礼を詫びて、会場を後にした。
 受勲式は、一人の功労者が退席したことなど、気にも留めない様子で粛々と執り行われて行く。
 老人が連邦議会の建物から出ると、すぐに黒塗りの車が止まった。後部座席に乗り込むと、老人に急報を伝えた男も隣に乗り込んだ。
 空港に向かって走り始めている。
 老人の横に座った男が、足元から黒く薄いアタッシュケースを持ち上げて、自分の膝の上に乗せた。
 アタッシュケースを開け、中から紐付きの封筒を取り出すと、恭しい様子で老人に渡した。
 老人は封筒の紐を外すと、中から厚手の紙を取り出した。目を通しながら、しきりに何度も頷いて、その紙を封筒の中に戻した。
「段取りは、どうなっておる?」
 隣に座っている男が、
「ヘリを待機させています。すぐにサカオガワ州にお戻りになりますか?」
 老人が、うむ、と頷いた。

 ババアの携帯が鳴った。
 発信先を確認した彼女の目の色が変わる。いつになく険しい表情になった。
――誰からだろう?
 携帯に出て、真剣に相槌を打ちながら聞いている。
 かなり珍しい光景だ。ババアは、一方的に怒鳴りつけるように命令して、自分から切る事が多い。
 それが今回に限っては、黙って、はい、はい、と相槌を打ちながら、神妙な面持ちで聞いている。
 暫くして、一瞬、彼女が言葉を失った。
 その後、悲鳴にも似た歓声を上げた。
――ババアもこんな声を出すんだ。
「本当に、本当ですか~? ご、ゴメンなさい。でもまた急ですね! いえ、でも嬉しいわ、ず~~~と、待っていた甲斐がありました。ここへ来て、アタシにもまだ運が残っていたってわけね。まあ先生、私、息を吹き返しました。はい、はい、わかりました。明日が正式発表ですね。ええ、私の方から発表します。じゃあ正式文書は……うちの後援会館に送って頂けます? はい、わかりました。ええ、今度、お会いするのを楽しみにしております」
 珍しく、しおらしい声を出している。
――何の話だろう……タダ事ではないようだ。
 携帯を切った後、暫く呆然としている。今まで眠っていて、良い夢から覚めたという表情だ。
 やがて、
「シマモ……アタシ、少し寝るわ」
 子供のようにポツンと言うと、横になってしまった。
 今度は、安心したのか、すぐに眠ってしまった。
――何事だろう?
 何か尋常じゃない事が起きたようだ。
 今日の夕方には、その正式文書とやらが来るだろう。後で確認しなければ……

 ババアがぐっすりと眠っているの確認してから書斎を出た。
 事務室に戻る。事務室の窓の下には、コスモスの鉢植えが置いてあった。
 花を一本だけ根本から切り取り、背が高めのグラスに水を入れて、一輪ざしにする。
 窓から外を眺めた。
――どこから見てるんだろう?
 まあ、私に見つかるようじゃ、駄目よね。
 一輪ざしのグラスを外から見えるように出窓に置いた。
 それが合図だった。
 ちゃんと見てるんだろうか? アイツ……
――あっ、眩しい!
 その時、窓の外から、目を一瞬照らす光があった。
 合図が通ったらしい。


 「魚市場の女のせいで降板された」とマネージャに散々悪態をついていた女優が、ロケ現場で、バラエティ番組の撮影をしていた。
 落とし穴に落ちるシーンで、何度もリハーサルさせられて、かなり参っている様子だ。
「だからさあ! ちょっと、演技が臭いんだよ。落ちる前に、下を見ちゃってるものおぉ! さっきは下は見なかったけど、落ちる前に目つむっちゃってるしぃ……いい? 目をつむらない! 開けたまま、下を見ない! わかった? はい、復唱して!」
「は、はい、わかりました……えっと、下を見ない! ……」
「目をつむらない!」
「はい、つむらない!」
「もう、大丈夫ぅ? バラエティ、見下してるならさあ、出てもらわなくて良いから!
「いや、決して、そのような事は……」
「ちょっと、今、CMでブレイクしてるからってさあ、あのワザとらしい演技をここでやられちゃ困るの! わかる! こっちは自然な感じでお願いしますよ!」
「痛つっ……すみません、ちょっと足が……少し休ませて下さい。ちょっと休めば、すぐに出来ますから」
「はい! 休憩! 休憩!」
 たちまち、照明係やカメラマンや音声係が散っていく。

 少し騒々しくなった現場に着物姿の男が入って来た。
「ちょっとここ、関係者以外立ち入り禁止ですよ」
「あっそ……これ」
 着物の男が助監督に何か証明書のようなものを見せた。
「はっ! これは失礼致しました」
 助監督が敬礼した。
「いや、いや、失礼なのは僕の方だから、ちょっと見学に寄っただけですから、すぐに帰りますよ」
 着物の男は、撮影現場をぶらぶらと見ていたが、落とし穴を掘った時に使ったと思われるスコップを手に取ると、
「あれ~、これ、うちのスコップに似てるな~って、スコップなんて、どのスコップも同じかあ。ハハハ……じゃ、僕、用事を思い出したので帰ります」
 着物の男がロケ現場を去って行った。
 助監督が不思議そうにその後ろ姿を見て、首を傾げている。
 女優は落とし穴から這い上がりながら、着物の男の後ろ姿を、忌々しいモノを見るような目つきで見ていた。
 少し、足を引きずりながら、用意されている椅子に腰かけて、足首の様子を見て、冷感スプレーを足首に噴きかけた。
「大丈夫ですか?」
 マネージャが声をかけて来た。
「うん、ちょっと休めば大丈夫よ」
 マネージャは安心したのか、すぐに関係者に挨拶しに行った。
 着物の男が手にとったスコップをチラリと見る。
 周りの人間の関心が自分に向けられていないのを確認してから、席を立ち、スコップを何気なく手に取った。
 スコップの柄の部分から紙片が出て来た。
 女優は、その紙片を周りに気づかれないように読み終わると、深い溜息をついた。
 元の席に座ると、マネージャを呼ぶ。
「ねえ、私のパスポート預かって貰ってたわよね。今、持ってる? そう、確認しておいて」
 マネージャが車に保管しているはずだ、と言って駐車場に確認しに行った。
 その後ろ姿を見ながら、
「あ~あ……この仕事、結構、気に入ってたのになあ……」
 女優は残念そうに、また深い溜息をついた。
 監督に、もう一度リハーサルするように呼ばれた。

 魚市場では、双子の兄弟のタレントがレポーターとして待機していた。
 弟が先程から、しきりに携帯を見ながらニヤニヤと不気味に笑みをこぼしている。
 兄は、先週辺りから、何かにつけ、携帯を見て、ニヤニヤしながら勝ち誇ったように、自分を見る弟に腹を立てていた。
「おい! 本番前に携帯いじるなよ」
「うっせーよ!」
 二人の間に元からある険悪なムードがさらに加速する。
 アシスタントが、二人の様子を見てヒヤヒヤしながら、
「あのお……そろそろ、こっちに中継が回って来ますんで、その……よろしくお願いします」
「はい、わかってます。大丈夫です」
 と兄は答えたが、弟は無視して、また携帯を見てニヤニヤしている。
「ハイ、来ます。三、二、一……」

 ババアが眠りついてから暫く経つ。
 やっと静かになり、部屋全体が落ち着きを取り戻したように感じる。
 私は急いで、残りの帳簿の入力を済ませた。
 データのバックアップを確認してからメモリチップを抜く。
 事務室から廊下に出て、玄関の方に歩いて行くと、陳情者のための待合室がある。
 その部屋の片隅には、陳情者が待っている間、退屈しないようにと、最新号の雑誌を用意したマガジンラックがあった。
 私は、その中から、古くなった雑誌を数冊ピックアップして、そのうちの一冊にメモリチップを挟み、後援会館を後にした。
 後援会館を出て、五分ほど歩くと、昔ながらの寂れた銭湯があった。
 なんでも先代からの付き合いで、古くなった雑誌を下げているのだった。
 来る度に、よくも、まあこんな小汚い銭湯でやっていける、と思う。余計に汚れそうな気がする。
――いや……やっていけないからか……
 銭湯の乾いた感じの音がする扉を開けて中に入ると、番台に爺さんが座っていた。
「毎度ぉぅ~、おっ! シマモちゃん!」
 爺さんがニヤニヤと気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、
「昨日の、持って来たネタ、上が大喜びだったよ。ワシも今、テレビで見てたよ。傑作だね」
「そうですか……」
と言いながら、番台の上に持ってきた雑誌をドサッと置いた。
「おいおい、ワシにはわからんけど、大丈夫か? ちょっと乱暴じゃない? 壊れない?」
「さあ~?」
「どうだい? たまには入っていきなよ。かえって怪しいんじゃねぇか? ヒッヒッヒッ」
「いやよ!」
 私は、すぐに銭湯を出た。

 銭湯の男風呂の中から、金髪の男が、勢い良く脱衣所に出てきた。
 番台の爺さんが、
「おい、メリケン! おめぇは、いつも頼みもしねぇのに、必ず入って行くな。それに金も払った事ねぇしな!」
 金髪の男は聞いているのか、いないのか、無視して体を拭いている。
 体を拭き終わると、冷蔵庫から、コーヒー牛乳を取り、ゴクッゴクッと飲み始めた。
「それも、一応、売りモンなんだけどな!」
 金髪の男は、無視して、もう一本、取って、飲み始めた。
「は~……」
 番台の爺さんが呆れている。
 金髪の男は、おもむろに全身にスプレーをかけ始めた。
「おい、それなんだよ!」
「ん? 虫除け」
 番台の爺さんは顔を真っ赤にして、
「それ、外でやれよ!」
 爺さんが怒鳴っても、気にする様子もなく、金髪の男は鼻歌を歌いながら、噴射し続けている。
「おい! メリケン!」
 金髪の男が噴射をやめて、爺さんをジロリと見据えた。
 その瞬間、爺さんは蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
 その目は、あまりにもゾッとする冷たい目だった。
 震えている爺さんを尻目に、また鼻歌交じりに、スプレーを始めると、結局、最後まで全身にくまなく噴射し終えてしまった。
 服を着ると、番台の爺さんのところへ、つかつかと近づいて来た。
 もう、目こそ合わせなかったが、爺さんはすっかり怯えている。
「どれ?」
 金髪の男が聞くと、爺さんは我に返り、シマモから受け取った雑誌の束を渡した。
 その雑誌のいくつかをパラパラとめくっていたが、その中からメモリチップを見つけると、取り出してズボンのポケットに入れ、雑誌の束を番台の上に戻した。
 爺さんはすっかり萎縮して、済まなさそうに、それを受け取った。
 金髪の男に睨まれてから、一言も言葉を発していない。
 金髪の男は、また鼻歌交じりに銭湯の暖簾を押して出て行った。


 依然として、ビルメンテの男の抗議は続いている。
 同僚の若者と一緒に地下の設備室に向かって、いかに自分達の仕事が尊いのか、説明するのだと息巻いている。懐中電灯で暗い階段の足元を照らしている。
 同僚の若者が、
「先輩、さっきからずっとICレコーダー使ってますけど、動画の方が良くないすか?」
「なに、それ? 動画ってビデオカメラ?」
「スマホで……これで……携帯で取れますよ」
「えー! マジでぇ? アンタ、すげぇなぁ! おぅ、おぅ、よし、取ってくれよ。おい! お姉ちゃん、聞いてたか? こっちも同時中継でそっちに絵、送るからよ。えっと、細けぇ事はわからいなから、ちょっと替わるよ」
 同僚の若者が、ビルメンテの男から携帯を受け取り、コールセンターの受付に説明している。
 その間、ビルメンテの男はしきりに感心して、頭を何度も振っていた。
「おっ! 兄ちゃん、終わったか? えっ? もう映ってんの?」
 ビルメンテの男の額から、じっとりと汗が滲んで来た。
「あの、先輩、何で黙るんすか、さっきの続き、しゃべって下さいよ」
 ビルメンテの男は、しばらく「えっ、何が?」「何だっけ?」と小声で同僚の若者に聞いていたが、同僚の若者が、
「ほらっ、フガク州の女政治家の宝石……」
と言うと、突然、猛烈に自分の使命を思い出した。
「そうだ、そうだ! 兄ちゃん、良いこと言った。おい、おかしいだろ! あんなにギラギラさせちゃって、ほらっ、この部屋、薄暗いだろ!」
「えっ? 電気つけますか?」
 同僚の若者が気を効かせたつもりで、聞いたが、ビルメンテの男が、
「えっ? つくの? えっ? マジで?」
 同僚の若者が電気を付けると地下の施設から闇が消えて、近代設備の数々が映し出された。
「へ~、知らんかった……例えば、ほら、これとか……」
と言いながら、ビルメンテの男が大きなパネルを開けて見せた。パネルの中には無数のスイッチが並んでいた。
 ビルメンテの男は、パネルを背に、カメラに向かって夢中で熱く語り始めた。
 自分の興奮した声が地下室内に響くので、さらに興奮して、どんどん声が大きくなって行く。
 声の調子に熱が入るのと連動して、身振りの方も、どんどん大げさになって行く。
 熱が極まって、身振りが最大になった瞬間……
パッチン!
 スイッチを跳ね上げた音がした。
 指がパネルの中の複雑に並んだスイッチのどれかを跳ね上げたのだ。
 パネル内のスイッチは数十個も並んでいて、元々、上がっていたものや下がっていたものが乱立していて、どれを跳ね上げたのか皆目検討がつかない。
「…………」
 ビルメンテの男と若い同僚は、暫く何が起きたのか理解できずに固まっていた。
「今、パッチンっていったよな?」
 同僚の若者が青ざめながらコクっと頷いた。
「俺、どれ、いじったあ?」
 同僚の若者が何も言わずに首を横に振っている。
「姉ちゃん、悪ぃ~、今、俺、どのスイッチいじったぁ? えぇ~、何で見てないのお~ えっ、たまたま? 姉ちゃん、本当かよ~!」
 ビルメンテの男は、カメラの存在を忘れて、呆然としながら、巨大なパネルの中の無数のスイッチを夜空の星を眺めるように見つめている。
「あっ! そうだ! これ、生中継してんだよなぁ?」
 ビルメンテの男の目に希望の光が戻って来た。
 同僚の若者が携帯を見ながら、
「三十人くらいは見てたみたいっすよ」
と言う。
「おおおおお! そ、それ、すげえなあ!」
 ビルメンテの男は、急に元気を取り戻して、カメラに向かって、
「ね~、俺さ、さっき、どのスイッチ、いじっちゃったか見てた人お! 頼むから教えてくれよ、ホント、お願いするわ……ええと、お願い……申し……上げます」
と深々と頭を下げた。
 顔を上げると、笑顔を作っているつもりなのだろうが、ただ、顔が歪んでいるようにしか見えない。

 番組の楽屋では、三流芸人の女が次の出番に備えて、メイクされていた。
 評判が気になり、携帯を見るともなく見ていると、番組への抗議の動画というものが上がっていた。見てみると、どこかのビルメンテの親父が脂汗をたらして訴えていた。
――しかし、どうして……
 誰もおっさんが跳ね上げたスイッチの場所を教えてあげないのだろう?
 こんなに困っている様子なのに……
――仕方がない。
 三流芸人の女はメイクしてもらいながら、フリップを見つけてイラストを描き始めた。
 メイクされながら描くのは難しい。目だけ下を向いて描いているが、自然と頭も下がる。その度にメイク係に注意される。
 やっと描き上げて、送信しょうとした時、メイク係が、
「ちょっと、シグラさん! すみません。ここから、ホント、大事なんで、絶対に動かないでくれませんかあ!」
 何度も注意しても、三流芸人の女が動くので、メイク係は相当イライラしている。
 仕方がないので描き上げたフリップを膝に置いて、鏡に映したまま、片手でシャッターを切った。
「どう? 動いてなかったでしょ?」
「はい……」
 メイク係が不機嫌そうに答える。
――よし、送信! と……
 はて……鏡で反対になっちゃったけど……まっ、わかるよね。

 番組では魚市場の様子が映し出されていた。
 「安いよ、安いよ」などの威勢の良い声が臨場感を出している。
 その現場にレポーターとして派遣されている双子の兄弟のタレントが映し出された。
 この昼の番組ではお馴染みのレギュラーになっていた。
 この二人が映された瞬間、双子の弟が、瓶を片手にゴクリと飲んだ。
 双子の兄が、
「なぜ? 今、飲む!」
と絶叫した。、
「何も飲んでねぇ! って……」
 魚市場の中継から、いきなりスタジオにカメラが戻って来た。

 三流芸人の女が携帯を見ている。
 ネットのコメントでは、ありとあらゆる罵詈雑言が寄せられていた。すでにスベるという現象を超えて、ある種のムーブメントになりつつあるようにも思われた。
 自分は世間から憎まれているのではないか? ただ怯える女がそいにいた。
――もうテレビに出るの嫌!
 いやいや、まだ今日は終わっていない。まだまだ……もう一度、台本を確認だ。
 今日は、よくわからないが、何かハプンニングが頻繁に起こっているらしい。
 そのせいで、最初は、このコーナーの出演の予定だけだったのに、のっけから、無茶ぶりされて、上手いアドリブが出来なかった。
 アドリブは苦手だ。アドリブは自分にとって最大の課題だ。
 元々、芸を作りこんで行く、そういう路線で、三年前には、これでも一世風靡したんだ。流行語大賞にだって選ばれたんだ。でも、どうしても運が良かった、という感が否めなかった。自分は本当の実力が欲しい。今日みたいなアドリブが必要な時にウケてこそ、真の実力じゃないか……
――おっと……台本、台本……
とその時、アシスタントが、
「シグラさん、突然ですが、スタジオにカメラが戻ります。予定より早いですが、はい! 一人芝居始めて下さい!」
――えっ!
 来たよ、来たよ、来たよ。だから台本、ぜんっぜん、読めてないんだって! 今日、ずっと予定外の出番ばっかじゃん。いつもなら余裕で頭に入ってるけど、今日はちっとも時間なかったじゃん。どうすれば良いのよ……どうする、どうする? アドリブ? ……それ最大の課題じゃん……
――でも、やるしかない!
 三流芸人の女は、覚悟を決めた。
 改めてセットを眺めると、一人暮らししている感じの小さな部屋にポツンと一つだけあるベッド……
 シルクのワイシャツを一枚だけ着させられていた。
――何? このシチューエーション?
 全然、わからない……あっ! 部屋とYシャツと私? そういう事? え~~! いくら何でも古過ぎねえか? スポンサーがそういう世代とか?
――よし! あとはやりながら考えよう。ア、ド、リ、ブ……
 三流芸人の女が歌い出した。
「お願いが……ある~のよ~~……いきなり振らな~いで~……こっちは準備もな~にも~……台本も読ん~でな~い。部屋とYシャツと私……愛するあなたのため……毎日、河原を走ってるから~オチが見つからないから……愛するあなたのため……とうとうオチが見つからなかあったぁ~……」
 三流芸人の女はカメラが切り替わるのを待った……
――あ~あ……ホンットに最後まで見つかんなかったわ……私、才能ないわ……
 完全に白旗を上げたつもりだっが……まだカメラは回っている。
――も~、どうしろっての?
 スタジオの雰囲気、最悪だよ~、どこからも、クスッとも聞こえて来ないっすよ~。
 三流芸人の女が部屋の片隅にあるクローゼットに気づいた。
 救いを求めるように自然と立ち上がり、クローゼットに近づく。
 祈るような思いで、扉を開けると、中に一着だけ毛皮がかかっていた。
――……だから?
 一瞬、そう思ったが、この真っ白な毛皮……どこかで見た記憶が……しかも、つい最近、それも、何度も、何度も……
――あっ! そういうことお!
 突然閃いた。
「あ~、寒い~、さぶいい~スベリ過ぎて寒い~」
 三流芸人の女が寒そうに自分の両肩を抱いて、わざとらしく震える仕草をしながら、眉を寄せる。
「これ、暖かそう!」
 着ていたYシャツの上に、その真っ白な毛皮を羽織った。
「温まるわ~」
 最近、あるYシャツのCMでさかんに、女優が毛皮を脱いだ後、Yシャツ姿になり、うっとりとカメラ目線をするシーンが話題になっていた。
――あれのパロディをやれ! ってことね。
 え~と何だけ? 決め台詞? そうだ!
 胸の谷間を強調するポーズを取って、えっと……
「ムフフ……」

 銭湯を後にして、事務室に戻り、書斎に入ると、ババアがテレビを見ながら、毛皮を着こみ、ポーズを決めながら、
「ムフフ……」
 とやっていた。
「代議士! 何やっているんですか? 寝てなきゃダメですよ」
「そう言えば、似たような毛皮あったの思い出して、これ着れば、原稿出来るんじゃないかって……」
「まだ、少ししか寝ていませんよ。せめて一時間は仮眠を取って下さい」
 とにかく、毛皮を脱がせて、ソファに寝かせる。
――危なかった。すっかり寝ていると思っていたのに……
 私を疑ってはいないようだ。
 しかし、まったく、ちょっと目を離すと何をしているんだか……
 先輩達の話によると、どうやら私はババアに気に入られているらしい。
 普段から怒鳴られてばかりで、あまり実感がないが、いつもの秘書なら、とっくにやめている期間が過ぎても、まだ続いているというだけの話ではないだろうか。
 でも、それは仕方がないのだ。これが任務じゃなかったら、とうの昔にやめていただろう。
 私にはこのババアが所属する後援会の情報を得るという任務が与えられている。
 やっとのことで潜り込む事に成功したのだ。そう簡単にやめられるものか。
 ババアが、スースーする、と言って、また煩くなって来た。
「どうも、首とか脇とか、服の隙間がスースーするのよね~……」
 何か考え込んでいる。嫌な予感しかしない。
「そうだ! ちょっと、そのビニール袋取って!」
 言われた袋を渡すと、袋から何やら丸いモノを束になるほど、手掴みで出して来た。
 最初それが何なのかわからなかったが、その正体がわかって赤面した。
 下着に詰めるパットだった。
 ババアは、それを自分の首や脇の服の隙間に詰め始めた。
「たぶんこの中、綿だよね。うん! 少し隙間が埋まって風が入って来なくなったわ。頭を柔らかくしないとね」
 見なかった事にしよう。
「なんか、背中が痒くなって来たわ」
 もう、本当に落ち着いて、寝て欲しい。
 口が裂けても、代議士、では背中をおかきましょう、なんて言いたくない。
 でも、ババアの事だ。そのうち、シマモ、背中かいて~、とか言って来るのではないかと、ハラハラする。
「シマモ~」
――ほら、来た!
「それ取って~」
 ババアが指した方を恐る恐る見ると、ゴルフクラブのパターだった。
 たまに暇な時に練習しているのだ。
 パターを渡すと、孫の手のように使って、気持ちよさそうに背中をかいている。
 ババアは、とにかく、モノをそのあるべき姿で使うということが少ない。
 本当にモノだけか? ……

 サカオガワ州の山の中、人気がまったくない場所にポツンと農家があり、すでに廃墟と化している。
 その家の脇に、すでに雑草が生い茂っている畑があった。
 その雑草の畑の中に、着物を来ている男がしゃがみ込み、群がって来る虫を雑誌で必死に振り払っていた。
 腕や腿などをしきりに叩いている。
 そこへ金髪の男が現われた。
 着物の男は、金髪の男を見ると、すっと立ち上がり、
「ちょっと遅いですね。だいぶ虫に食われましたよ」
 金髪の男はそれには何も答えず、空を見上げながら、ズボンのポケットをまさぐり、メモリチップを取り出した。
「おお、昨日のネタ良かったですよ。今回も期待してますよ」
 金髪の男が、着物の男にメモリチップを渡すと、落ち着きのない様子で、辺りを見回した。
 脂汗をたらしている。
「ん? メリケン! どうしました?」
 さらに声を絞って、
「誰かにつけられている、とか……そんなヘマはしてないはずですが……」
 着物の男も周りの気配を全身で感じるように、目を忙しなく動かし、辺りを見回す。
「トイレ……」
 着物の男は、不貞腐れたように、
「そう……その辺でやるしかありませんね」
 金髪の男は、そのままズボンを下げて、草むらの中に座り込んだ。
「お、おい、その辺って、木陰とか……いろいろ……まぁ良いや。じゃあ、私はこれで」
 着物の男は、バス停に向かって暫く歩いてから、持って来た雑誌を畑に忘れたのに気づいた。
 まだ読んでいなかったので、面倒だが引き返す事にした。これから、バスで山の麓に戻るにしろ、一時間以上かかる。暇潰しできないよりはましだ。
 畑に戻ると、その雑誌は見つかったが、数枚破られていた。
――あのメリケン野郎……
 ふと足元をみるとハート型のガラス玉が目に飛び込んで来た。
 拾い上げてみると携帯だった。
――メリケンのか? これは良い拾い物か?
 着物の男は、操作してめぼしい情報がないか見ていたが、やがて、とんでもないものを見つけてニヤリとした。

 その頃、金髪の男は坑道に入り、道に迷っていた。
 携帯のメモリに坑道の地図が記録されていたのが、坑道に入ってしまってから、落とした事に気づいたのだった。
 それでも、散々迷った挙句、やっとの事で、坑道の外に出る事には成功した。
 しかし出るには出たが、その場所は、見た事もない場所だ。
 この辺りの坑道の入口は至る所にある。
 状況はまったく変わっていない。
 そうかと言って、今来た坑道に戻る気にはなれない。坑道の地図なしで下手に迷い込むと、道によっては命を落とす危険な場所なのだ。
 坑道よりは、まだ森で迷った方が助かる確率が高いだろう、と彷徨ってから、数十分後、川に辿り着いたが、もう限界だった。
 祈るように発煙筒を取り出すと、上空に向けて、発射した。
 黄色い煙が上空に向かってモウモウと立ち昇って行く。
 黄色い小さな旗を立てて、気を失った。


 黒塗りの車の中で燕尾服を着て、オルガンを弾いている男がいる。
 リムジンの広くゆったりとした後部座席に備えつけられたオルガン、その上にスパークリングワインとグラスが置かれている。
 その脇には小型の液晶テレビも置かれていた。
 燕尾服の男は、髪を振り乱し、一心不乱にオルガンを弾いている振りをしていたが、実のところ、液晶テレビに映しだされている番組が気になっている。
 途中で間違え、癇癪を起こして、鍵盤に両手を押し付けて不協和音を鳴らした。
 すかさず、携帯を取り、番組のディレクターに電話した。
「あのさ、俺だけど……そう、俺……」
 燕尾服の男は、番組のスポンサーである。
 声のトーンを出来るだけ抑え、極めて冷静に話すように努めているが、声の微妙な震えから、怒気を隠しているのは明白だった。
「あのさ~、今、思ったんだけどさ~……どーせスベるならさ、いっそのこと、オーガニックビールの宣伝してもらった方が良いかなって……えっ? 昼間の番組? 何、それ? みんな昼からビール、飲まないの? そう、まあ俺もビールは飲まないけどね、ワインはさっきから飲んでるよ? えっ? まぁ、流れ見て検討しといてよ。それとさ、あれ、やってよ。そう仕返しだよ。仕方ないよ。あっちがその気ならさ、こっちだって反撃しようよ。あんまり、こういうの気が進まなかったんだけどさ、ちゃんと準備させてるよね? うん、じゃ、よろしく」
 携帯を置くと、また、最初から弾き始めた。

 ディレクターは電話を切ると、持っていた歯磨きで、猛烈な勢いで歯を磨き始めた。
 肘を支点に全身がモーターのように振動している。
 必要以上に青白いので、命の灯火が燃え尽きようとしているようで薄気味悪い。たまに汗も飛び散るので、誰も近寄りたがらなかった。
 周りのスタッフが、いい加減、歯茎の皮がめくれているのではないかと、心配している。少なくとも、既にエナメル質は、剥がれているだろう、そう思っているが、状況が状況だけに、もうやめた方が良い、と止める勇気のある者はいなかった。
 ディレクターの振動が突然止まった。モニター室のスタッフ一同が息を呑む中、ディレクターが全員に向かって吠えた。
「河原の男に準備させろ! これが終わったら、そっちに飛ぶぞ!」
 モニター室のスタッフ達の表情に緊張が走る。
 事前の打ち合わせで、その計画を実行する可能性は低いと聞いていたが、遂に決行することになったのだ。
 アシスタントを呼びながら、彼が走って来る間に、メモに走り書きをする。
「シグラちゃんの準備は出来た? そう、じゃあ、これ、司会に指示して」
 メモには、『緑の服のタイキ完了』、と書かれている。

 アシスタントは首をかしげながら、カンペに『緑の服のタイキ完了』と書いて、司会に見せた。
 司会は、出されたカンペを読むと、一瞬、まさか! というような戸惑った表情を見せたが、半ばヤケクソ気味に、
「はい、それでは皆さん! 覚えておいででしょうか? これから……あの……懐かしの……シグラさんの……あの……伝説の……芸が始まります……」
と言うと、口元だけは意識的に表情を作ってはいるが、不安そうに目を泳がせた。
 スタジオの照明が徐々に落ちて行き、スタジオが暗くなって来た。
 照明がすっかりと落ちて、真っ黒になった後、どこからともなく、オルガンの懐かしいメロディーが聞こえて来た。
 以前、そのメロディーは、誰でも感傷的な気分にさせてくれる名曲だと言われていたが、数年前から、その曲を聞くと、酷い嫌悪感、気分が沈んで来るようになった、という苦情が殺到し、どこの局も自主規制するようになり、久しく聞かなくなったメロディー……
 その理由は明白だった。
 暗闇の中に一筋のスポットライトが落ちる。落ちた先には、緑色の衣装を着た者が立っている。
 頭を後頭部が見えるほど深々と下げているので、まだ誰なのか判別出来ない。
 片手を上に伸ばし、一歩足を下げて、騎士が女王にするようなお辞儀の格好をしたまま止まっている。
 バックには、まだ気分が沈むオルガンのメロディーが流れている。
 やがて顔を上げると、三流芸人の女だった。
 三流芸人の女が緑色の衣装を来て、スポットライトの中央に立っている。
 目がキョロキョロと宙をさまよっている。何か小さな虫の動きを捉えようとしているように……足は小刻みに、せわしなく動いている。
「ティンカー・ベル! 僕に、僕に、妖精の粉を振りかけてぇ~!」
 どうやらピーターパンのようだ。
 何かが、かかったのような仕草でウットリと目をつむり、両手を広げる。
 三流芸人の女が飛んだ。
 明らかにワイヤーで吊られている動きだが、地面から一メートルは上がっている。
「ほらっ! 君達が信じてくれたからあ……ほらっ! 君達が信じてくれたからあ……僕は飛べたんだぁ! ほらっ! だからぁ~、君達が信じてくれたなら~、君が信じてくれさえすればあ~、ぼ、僕はスベらない、僕を……僕を信じてぇ! ぼ、僕も……僕も……し、信じ……」
 画面からもスタジオを始め、全国が凍りつき、静寂に包まれて行くのが伝わって来た。
 誰もが完全に忘れ去りたかった過去をえぐり出されている気分になっていた。
 あれは悪夢だった。
 一般に認めたがらない者もいるが、歴史には空白期間というものがある。世の中には本当に何事も起こらない時期というものがあるのだ。また、あったとしても、どうしても隠蔽しなくてはならず、その隠蔽に成功し続けている時期だとも言える。そのすっぽりと開いた空白の時間に、この三流芸人の女が、すっぽりと嵌まり込んでしまったのだった。
 当時、どの局を回しても、この緑色の衣装を来た彼女の姿を見ない日はなかった。CMにも起用されていたので、番組に出演していなくても、見る事になった。どういうわけか、既に皆が飽きて、嫌悪すら感じ始めている者が大半になっても、その現象は暫く続いていた。
 大衆も、最初こそ、ローカルなネタとして笑い者にしていたものの、そのちょっとした悪意がここまで広がるとは……浅はかだった自分達の感情が、あれほど尾を引く事になろうとは……大衆の心に戒めとして、トラウマになったのだった。
 三流芸人の女も、やっと開放され、最近では思い出す回数も減り、ようやくリハビリに成功したと思っていた矢先だったが、今回の番組のディレクターは、かなり切羽詰まっているらしい。
 保険の保険の保険の支払いを命じて来たのだ。
「ほらっ! 君達が信じてくれたからあ……僕も……信じ……」
「信じ……」
 三流芸人の女の両腕がダラリと下がり、うなだれた。
「……られない……」
 吊るされ状態で左右にブラリぶらりと行ったり来たりしている。
 グッタリと全身を脱力させ、下を向き、カメラも見ないままで、
「あの……もう……ギブアップです……勘弁して下さい」
 それでもカメラは、容赦なく振り子のように揺れる三流芸人を捉え続けている。
 吊られたまま、手足をバタバタしたまま、
「もう降ろして下さい!」
 と悲鳴にも似た金切り声をあげた。
 スタジオは水を打ったように静まり返っている。
 いつの間にか悲しいメロディーも止まっていた。
 三流芸人の女が顔を上げて、どこかを見て、訴え始めた。
「もう、限界ですってば……」
 三流芸人の女の目が少し光り、ほぼ素、になっているのがわかる。
 しかしカメラは、尚も容赦なく、スポットライトに浮かび上がった緑色の振り子を捉え続けた。
 このまま、この映像が永遠に続くかに見えたが……
 三流芸人の女の芸歴上、一つの奇跡と呼べる現象が起きた。
 三流芸人の女は先程から衣装のポケットに何か異物が入っているのを感じていた。
 ポケットの中に何かが入っていることだけは確かだった。
 しかし、突然のネタ振りに、慌てて着替えたことで、ポケットの異物感を気にしている余裕など、なかった。
 その異物を取り出して見ると、何かの飲み物の缶だった。
 何のプリントもされておらず、鉛の質感むき出しなので、何が入っているのか、わからない。
 三流芸人は、ケーブルに吊られたまま、体に電撃が走ったように、両手両足に力が入り、小刻みに震えた。全身の筋肉が喜びの声を上げている。
 目は中空を見つめ、今まさに天啓を受信していた。
 その目は、長年閉じ込められていた迷路から、今、まさに解き放たれた、と言わんばかりに輝いている。
 三流の芸人が、その缶をカメラに向かって勢いよく差し出してから、その缶を一気に自分の顔に近づけた。
 思わずカメラが、その動きを追い、三流芸人の女の顔がアップになる。
 缶を顔に近づけたまま、缶の蓋を勢いよく開けて、カメラをしっかりと見据えた。
 全国の関心をここに集めている、という実感がある。
「今から、これを飲み干します。その後、さっきまで~、みんなが何を飲んでいたのか? 教えちゃいま~す!」
と笑顔で言うと、ゴクッゴクッゴクッ……と勢いよく喉を鳴らしながら飲み始めた。
 彼女が――真のアドリブ――というものを掴んだ瞬間だった。
 今までは、自分が創作した芸を押して行こう、と意識する余り、周りの空気を感じることが出来なかった。
 持っている材料で勝負するのではなく、誰かが創って認知されている材料を使いこなせるようになりたい、そう願っていた。
 しかし、今まさに、たまたま入っていたポケットの材料を使い、周りの空気が求めているものを正確に捉えて、自分が出来るパフォーマンスとフィットさせようとしている。
 今度は、画面から、スタジオを始め全国が、三流芸人が飲み干し、そのあとに発するであろう一言を聞こうと、身を乗り出しているのが伝わって来た。
 三流芸人の女は、ゴクッゴクッ……と喉を鳴らしながら、渾身の一撃を狙っている。
 もう少しで飲み終わろうか……という瞬間、そんなイチ芸人の芸歴上の偉業など無視するかのように、やはりCMに切り替わってしまった。

 CMが開けると、どこかの川が映し出されていた。
 ゆったりと流れるの川の両脇には広めの河川敷が広がり、その土手の上に舗装された歩道がある。
 その道は、四人ほどは歩ける幅で、パラパラと散歩している人達が通り過ぎて行く。
 特別に賑わっている、という風でもないが、寂しい場所でもない。
 葦が生い茂っている場所だが、管理が行き届いていて、綺麗に刈り取られている。
 平日にしては、比較的混雑している河川敷であった。
 昼時なので、川を見ながら、持参した弁当を食べている人々も、ちらほらと見える。
 休日には、たくさんの人達がこの河川敷に集まって来て、野球やサッカーなどの球技をしたり、子連れの親子の集団がバーベキューをしたり、歩道をサイクリング姿の者達がコースの一部として利用したりしていた。
 その河川敷に、アナウンサーの女が一人、カメラに向かって立っている姿が映し出されている。
 ゆったりと流れる川を背景にマイクを持っている。
 これから、レポーターとして実況中継する様子だ。
 普段は報道番組で見ることが多い、少し硬い雰囲気を持つアナウンサーだった。
 レポーターの女を映したあと、河川敷から土手の歩道を見上げるようにカメラが移動した。
 河川敷から歩道までは、斜面になっていて、雑草で覆われている。
 途中途中に階段もあるが、決して降りて来られないほどの急な斜面でもない。
 その歩道の奥からランニングシャツに短パンの男が、レポーターの女を目掛けて、駆け降りて来た。
 レポーターが、その男にマイクを向けようとしたが、短パンの男は勢いあまって、彼女を通り過ぎて行った。
 レポーターはマイクを持った手を伸ばしきったまま、そこに置いていかれた状態になっている。
 照れ隠しなのか、その男は、河原に捨てられている机に足をひっかけると、仰向けになった。
 そして、今度は、物凄いスピードで腹筋運動を始めた。
「イッ、ニッ、サッ、シッ……」
 たまに左右に捻っている。
 段取りにはなかったのだろう。
 レポーターは暫く、あっけに取られて、男の腹筋運動を見ていたが、ようやく、男が三十を数え終わる頃、我に返り、腹筋中の男に駆け寄って行った。
「すみませ~ん。少しお伺いしたいのですがあ……」
とマイクを男の顔に向けたが、男は腹筋に集中するあまり、マイクの存在に気づかない様子だ。
 レポーターは片膝になり、尚も腹筋中の男の顔にマイクを近づけようとするが、男は、首を極度に屈曲した状態で腹筋をしているため、近づけると、頭の付近にあたってしまい、認識させることが出来ずにいる。
 男は、頭にあたったマイクを邪魔そうに、頭で、フン、と、レポーターの方へ押し返してよこした。
 またもやレポーターが動揺している。しかし今度はレポーターも引き下がらない。
「すみません。この川の名前をご存知ですか?」
 腹筋中の男を無視して、台本の通りに一気に言い切った感じだ。
 腹筋中の男が突然、
「こらあ! お前ら~!」
 と、レポーターの肩越しに怒鳴った。
「ひっ!」
 レポーターが驚いて仰け反り、片膝だったので、尻餅をついてしまった。もう涙目になっている。
 カメラが、男が怒鳴った方向を映し出すと、中学生くらいの少年二人が河原に停めてあったボートに乗って遊んでいた。
 レポーターは、自分が怒鳴られたのではない、と知ってホッとしたものの、釈然としない様子で男の顔を恨めしそうに睨んでいる。
「あの、すみません。この川の……」
「こらあ! 降りろ! って、言ってるだろがあ! 聞こえんのかあ!」
「ひっ! も、やだあ……」
 思わず本音が出て、はっ、とするレポーターだが、カメラに向かって愛想笑いをしている。
 レポーターも諦めて、
「君達ぃ~、危ないですよ~、ボートから降りてね~」
 中学生がボートの上から、何かを叫んでいる様子だが、マイクはその音を拾えていない。
「うるせ~! 口答えするなあ! 大人が降りろ! って言ってるんだから、降りれば良いんだあ! オメエラぶん殴るぞ~!」
 男は怒鳴りながらも、小さく、
「ヨンイッ、ヨンニッ、ヨンサンッ、ヨンシッ……」
 と腹筋運動を数えている。
 レポーターは、意外と器用な男だな、と感心しつつも、いけない、いけない、と思い直し、長縄跳びの縄に入る隙を覗うように、たまに、
「あの、この川の名前……」
 と切り出すが、その度に、
「だから、こらあ! 降りろ~! 危ないって言ってんだろ~!」
 とかき消されてしまい、その度に不貞腐れ気味に、低いテンションで、
「僕達ぃ~、降りないと、おじさん、怖いぞ~」
 と言っている。
「オメエラ、あと十、数えるうちに降りねえと、とんでもねえことになるからな……ジュウ! キュウー」
 小さな声で、
「ゴーイッ、ゴーニッ、ゴーサンッ、ゴーシッ……」

 プロジェクターを通して、スクリーンに映しだされたテレビ画面に、ツキダはすっかり心を奪われていた。
「そうだ、そうだ、危ないよ……」
 ハッとして、聖書の知恵の書の一節を口ずさむ。
「かえって人生を遊び事とみなし……生活を金儲けの出来る催し物と考えて……どんなことからも……たとえ悪からでも……利を得るべきだと言う……」
 ツキダは目を瞑って、感傷に浸っている。
 その間も、テレビでは河川敷での、短パンの男と中学生のやり取りが映し出されている。
 やがて目を開けると、鼻歌を口ずさみ始めた。
 そのうち、鼻歌に感情が入り始める。
 ツキダはさめざめとした調子で聖歌を歌い始め、会議室に漂うどんよりとした陰鬱な雰囲気を清めようとしていた。
 自分の気持ちが少しずつ落ち着いて来るのと連動するように、スクリーンに映し出されていた河原の男の腹筋運動のペースも次第に落ちて来ている。
 その間もレポーターは、何度も、タイミングを取りながら、短パンの男の顔にマイクを向けるが、その度に、腹筋しながら、中学生を怒鳴っているので、マイクが腹筋の男の顔の前を行ったり来たりしている。
 アシスタントの携帯が振動した。発信先を確認して、慌てて出ると、声の調子から、ディレクターが怒鳴っている声が漏れて来る。
 アシスタントが肩と耳で携帯を抑えながら、カンペにマジックで書き始めた。
 カンペには、
「ハヤク、キケ!」
 と書いてあった。
 レポーターはそれを読むと、思わず興奮して、
「わかってるわよ!」
 甲高い声を張り上げて、ヒステリックな調子で、
「この川の名前、ご存知ですよね!」
 と叫びながら、腹筋中の男の屈曲してはいるものの、疲れたため、少し上がってきた顎の隙間を狙って、グイ! っとマイクを突き刺そうと、手を伸ばした。
 その瞬間、男は大げさに仰け反って、マイクを避けて、レポーターをキッと睨んだ。
「ひっ!」
 レポーターは、びっくりして、反射的に、マイクを持った手を引っ込めた。
「も、だから、やなのよ~」
と泣きそうな声をあげている。
 男は一瞬、何を聞かれたのか、ポカン、としていたが、やがて、あぁ! と、何かを思い出した表情になると、
 息を切らして腹筋しながらも、
「け、ん、ざ、か、い、の、か、わ……」
と答えると、一瞬でレポーターの女の目に光が戻った。
 やっと台本通りだ、といわんばかりに、安心したように何度も頷きながら、
「県境の川? それって何ですか?」
「そ、れ、は……」
プツン……
 画面が暗くなった。
 暫くして、スタジオにカメラが戻って来た。
 司会は、慌てている様子で目を白黒している。


 黒塗りの車の中で、オルガンの懐かしいメロディーを響かせていたが、液晶画面が真っ暗になったのを見て、演奏を中断した。
 椅子の横には秘書らしき女が座っている。
 秘書らしき女は、半分寝ながら、聞いていたが、慌ててを目を開けて、今まで眠っていなかった事を殊更アピールするように大きく見開いている。
 スポンサーは、それには気づく様子もなく、慌てて携帯をかけた。
「どうなってるの? えぇ! わからない、ってどういう事、肝心な所で、切れちゃったじゃない。えっ? 今、調べてるって……おいおい、スタッフの中にスパイでもいるんじゃないかあ? もう、いっその事、みんな身体検査しちゃえよ! えぇ? 冗談だよ!」
 声の調子を荒らげて行くスポンサーを見て、秘書らしき女が怯えて、スポンサーとの距離を取って行く。
 秘書の様子を見て、
 スポンサーが大きなくしゃみをした。
「ティッシュ、ティッシュ……」
 スポンサーが手を伸ばすと、横に座って体を引き気味で怯えている秘書らしき女が、箱ごとスポンサーに差し出した。
 スポンサーは鼻を噛み終わると、まるめたティッシュを女に見せている。
 女が嫌そうな表情で顔をそらし気味になったのを尻目に、握った拳の中に詰め込み始めた。
 秘書らしき女が何をする気だろう? とその拳を見つめていると、スポンサーが突然、その握った拳を開いた。中に詰め込んだはずのティッシュが消えていた。
 驚く女を見て、スポンサーが愉快そうに笑った。
 つられるように秘書らしき女も笑ったの見てから、携帯の相手に、
「えぇ? 何もおかしくないよ。じゃあ、頼むよ、ホントに」
 と言いながら、携帯をオルガンの上に置き、ニヤニヤ笑いながら、女の顔に顔を近づけて行く。

 魚市場の女が、楽屋でふて寝しながら、携帯を見ている。
――んだよ……誰がカウンセラーだよ……ったくふざけやがってぇ……
 そう言えば、私あてに抗議の動画が来てるって、言われたなあ、んだよ……何で、そんなのアタシが見なきゃいけないんだよ……なに、何?
――あれ……パパじゃん!
 ピアノ弾いて……え? 何の歌?
 動画では日本語学者と名乗る男が、『旋律がなくても詠える日本語』という著書のデモンストレーションだと言って、指一本でピアノを鳴らしながら、
「ニゲロ! ニゲロ! ! ニゲロ! キケン! ミーレバ、ワカーール! チカーノチーズー、ネックレスのなーかー、裏切り者は~逃がさない~」
――パパ、ちょー久しぶりぃ!
 あっちの州に転勤しちゃってから、ぶっちゃけ、寂しいよ~
 そうだ! さっきパパから貰ったネックレスが壊れたら、メモリチップが出て来たんだ。
 魚市場の女が、携帯からメモリチップのデータを確認する。
 あれぇ……これ、あの時の坑道の地図じゃん……へ~~、そうなんだぁ~、パパの州に繋がってるんだー

 三流芸人の女が、シルクハットを被らされて不貞腐れている。
 も~、何なのよ~、さっき、アドリブ、最高の瞬間だったのにぃ~、……やっと観衆の心を掴んだ、と思ったのに~、いきなり河原の男に持って行かれて、まぁた、こっちに戻って来るのかよ~、も~、今日ホンット、都合良く使われてないかあ? もう! ここ三年も封印していた芸を久しぶりにやらされて、ヘコんでるって!
――今度はなにぃ? また台本なしぃ~~
 もう、どれだけ器用な芸人だと思われているのよ。買い被り過ぎだってぇの……まぁ、ちょっと、そういうの、嬉しく思うの、否定しないけど……
 司会が、
「はい、次はお待ちかね。えっ? 待ってない? ハッハッハ……まあ、そうおっしゃらずに……シグラさんのマジックショー!」
 派手なビッグバンド系の音楽と共に三流芸人の女が登場した。
 三流芸人の女が被っていたシルクハットを取って、お辞儀する。
「凄い! シグラさん、マジックも出来たんですねぇ!」
 司会が派手に手を叩いて喜んでいる。
「ええ……まぁ……」
――できないよ~、はあ……シルクハット、そういうことね……
「では、早速、見せて頂きましょう! はい、拍手ぅ! パチパチパチ……」
 三流芸人は、さっきお辞儀した時に、シルクハットの後部に切り込み入っているのがわかった。
――これで出来るもの……出来るもの……
 三流芸人が切り取られた部分に顔が出るように、シルクハットをすっぽりと被った。
「ネック・ローテーション!」
と叫ぶと、被ったシルクハットをクルクルと回し始めた。顔が見えていない間に反対を向いて、スリットに合わせて顔を動かす。しかし元々、小さめのシルクハットを強引に回しているために、顔と帽子が密着し過ぎていて、思うように回らない。
 拍手も起こらない中、シルクハットを取って、また、お辞儀した。
 場内が水を打ったように静まり返る、とはよく言ったもので、観客は芸が終わったのかどうか判別しかねていた。
 しかし、さすがに司会はプロで、しっかりと出尽くした感を見切りつつ、少し落胆した様子で、
「はい、ありがとう御座いました……え~と、あのシグラさん……これってパクリですよね、まずくないですか? 大丈夫ですか?」
――ああぁっ、そこなんだぁ!
……そこ、突いて来るんだ。つまらないとか……そういう事じゃなくて……
 三流芸人の女が思わず、くしゃみをした。
 くしゃみと合わせて、画面に背を向けた。
 そしてジャケットのポケットの中をわざとらしく探している。
「ええと、ティッシュ、ティッシュ……」
 ジャケットからポケットティッシュを取り出すと、その中から一枚抜いて、画面に向き直った。
 ティッシュで顔全体を包み込むような仕草で、大げさな音を立てて鼻をかんだ。
 ブー!
 司会が嫌な顔をしている。
 三流芸人の女は、そのかみ終わったティッシュを握りこんだ拳に、人差し指で詰め込んで行く。
 司会が首を振りながら、またか……という表情で不貞腐れ気味に首を傾げている。
 三流芸人の女が、握りこんだ手を開くと、ティッシュが消えていた。
 場内が静まりかえる中、司会が大声で、
「おお! 拍手ぅ~!」
と大げさに手を叩いている。
「はい、シグラさんのマジックショーでしたあ~、大変貴重なものを見せて頂き、どうもありがとうございましたぁ!」
と、三流芸人の女をスタジオから追い出すように幕引きさせた。

 ツキダはケーブルに足を絡ませて転倒している。
――たっく……またかよ……
 小さな会議室の天井を見ながら、もう一層のこと、このまま倒れていようかな、とも思う。
 そうしたら誰かが見つけてくれて、頭を打ったと勘違いしてくれて、病院に運んでくれるのではないか? プレゼンも新人研修も全部無しって事にならないかな……
 いかん、いかん、だいぶ気分が沈んで来てしまった。
 聖歌がまずかったかな? 気持ちを落ち着かせよう、と歌っていたはずが、落ち着き過ぎて、ダウンしてしまったのだろうか?
 ボーっとし過ぎて、転倒してしまったのだろうか?
 確かにテレビは見ていたけど、そんなに夢中になるほどの芸でもなかったはずだ。はて? 何の芸を見ていたんだっけ?
 いかん、いかん、今度は、思いっきりアドレナリンを出して行かないとまずいな。
 ツキダは鞄の中を漁り始めた。
 薬の瓶が、いくつも出てくる。その中の一つの蓋を開けて、一錠取り出し、そのまま飲み込んだ。
 一錠くらいなら水がなくても平気だろう。
 薬の瓶を鞄の中に放り投げて、すぐにパソコンを覗き込む。
――おっかしいな……
 ツキダは、さきほどからプレゼンの説明資料として作ったはずのファイルを印刷しようと思って、探していた。
 しかし、一向に見つからず焦り始めていた。二週間も前から、準備していて、すぐに印刷出来る状態になっていたはずだ。
 だんだん不安が大きくなって来た。
――あれっ? ところで、今飲んだのって何だっけ?
 あの薬って……精神安定剤だったよな……それじゃなくてカフェイン剤を飲むはずだったんだよな……つい、いつもの癖で……
 ……あれ? 今飲んだのって下痢止めだったけ?
 もう、どっちだって良いか……フフ
 それより、さっきから、ちょっと、このケーブルが邪魔なんだよな。
 そのせいで何度も転んでるんだよ。それで、イライラして来てるんだ。
 抜本的に解決しないとな。
 ツキダは会議室を出て、備品室からモールを持って来た。
 ブラスチック製のモールの中にケーブルを収めてしまえば、もう足の引っかかりようがない。
 モール底面の両面テープを剥がして床に貼り付け始めた。上部のフタを開けて、ケーブルを中に押し込んで行く。フタを被せて、その上を足で踏んで固定させて行く。
――どうだ! これで、もう足を引っ掛けなくて済む。
 ツキダは、作業員になった気分がして、誇らしく感じた。
――さてと……
 ツキダがスクリーン上に映し出されているテレビを見ると、スタジオ内では、双子の兄弟が何かの缶詰を開けようとしていた。
「何が出るかな? 何が出るかな?」
 双子の兄弟はテンションが高いの低いのか、よくわからない。声はコミカルに盛り上げている調子だが、目が笑っていない。
――あれっ? そう言えば、あの双子の兄弟って……さっき魚市場にいなかったけか?
 どうしてスタジオに戻って来てるんだぁ?
 ツキダはいよいよ、自分の記憶が錯乱したのか、と不安の絶頂に達した。プレゼン用に作ったと思ったファイルも、実は自分の思い違いで、本当は作っていなかったとか……
――あっ! これ、録画映像だろ!
 何かハプニングが起こっていたみたいだし……遂に生放送が厳しくなって録画に切り替えやがったんだぁ!
 ツキダの疑惑が通じたかのように、画面上の双子が、くしゃみした。

 ある大使館の大会議室――その部屋は、大使館の部屋の中でも最も大きく、五十人以上収容しても、息苦しさを感じないほどのゆとりのある空間だ。
 その大きな会議室の中で、さきほどから、腰掛けている老人と立ったまま話ししている着物の男がいた。
 声の様子から、何やら密談をしている様子だ。
 老人は、勲章を受けていた時とは別人のように目をギラギラさせて、着物の男が指し示す大画面を見ていた。
 その二人は、大きな会議室には不釣り合いだった。
 大画面には、地図のようなものが映し出されている。
 着物の男がハート型のガラス玉がついた携帯を拾ったいきさつを説明して、老人に今後計画の説明をしていた。
 老人は、着物の男の話を注意深く聞いているようだが、細かく相槌を打つような事はなく、ごくたまに、質問を発するだけである。

 ノックの音がした。
 着物の男が、入るように促すと、大会議室のドアが開いて、すぐに女優が入って来た。
 やけに早歩きのために、少し慌てているようにも見える。
「お待たせしました」
 着物の男が、
「あぁ良く来てくれました。大体、今、説明が終わって、細かい所を詰め始めたところです。ちょっと、事態は急を要しましてね」
 老人が話し始める。
「久しぶりだね。テレビでは何度も見ているがね」
と、少しだけ、口元をあげた。
 横で着物の男も二、三度うなずいた。
「ええと、何だっけ? ムフ……」
「やめて下さいよ!」
 女優は、もう、その話は聞き飽きた、というように、一瞬天を仰ぎ、
「それで、今度は何の任務ですか?」
と事務的に聞く。
 老人は、一度、咳払いをしてから、
「単刀直入に言おう。君にはフガク州の湖の水門を破壊してもらいたい。破壊を確認次第、過激派から犯行声明を出させる。君は成否の如何にかかわらず逃亡してもらいたい」
「わかりました。で、その計画は?」
「詳しい説明は、若旦那から、してもらおう」
 着物の男が、
「では……まず、こちらを御覧ください」
 と言って、女優に背を向けて大画面の方を見上げた。

 魚市場の女がロープウェイに乗っていた。
 山の頂上へ登って行く。
 まだパパがこっちに住んでいた頃、よく連れて来てもらったっけ……
 でも、あの洞窟……坑道だったんだ……パパはやたら詳しかったけど、どうして……
 とにかく、この道を通ってパパがいるフガク州に逃げて来いって事は確かなんだけど…――どうして?
 アタシはパパに似ないでバカだから、社会勉強なんて言ってキャバ嬢やってたけど、パパは、そんなアタシを一度も叱らなかった。
 結局、耐えられなくなって、誰もやってない事やりたいと思って、最近、魚市場で働き始めたけど、これと言って面白い事もないし、ネットで、写りが良い写真だけアップして、少し人気が出て来たけど、所詮、写りが良いヤツ、ピックアップしてるだけだから、デビューなんて出来るわけがないし……っていうところへ、あのテレビ出演の話が来たのよね。
 メールで色々と指令がやって来て、上手く演じてくれたら、デビューの道をつけてくれるって言うし……このアタシをテレビに出演させられるだけの力があるんだもの……可能性はあるわよ。
 でも、確かに何かおかしいわ……パパが逃げろって言うんだもん。これは逃げなきゃまずいのよ。
 ロープウェイの窓から、徐々に隣のフガク州の湖が見えて来た。

 ノックの音がした。
「どうぞ!」
 動揺し過ぎて、ツキダの声が上ずった。
 小さな会議室の扉が開くと、白髪の男と眼鏡の男、そして新人と思われる若い青年が入って来た。
――しまったぁ!
 何と言うことだ! 全然、終わっていない……
 テレビに気を取られている間に、いつの間にか、プレゼンが始まる時間になっていたのだ。
 ツキダは、慌てて、プロジェクターに映っているテレビ画面を消した。
 貴重な準備の時間をテレビに奪われ、気持ちを落ち着けようと、歌っている間に……
 気持ちが、ようやく、落ち着いて来て、ゲップも収まりかけていたのに、また気持ち悪くなって来た。
 ツキダが開口一番、発した言葉は、早弁の言い訳だった。
「え~と……あのう、私、ちょっとお腹空いてないもので、どうぞみなさんだけで……」
 白髪の男は、この支店の支店長で、弁当を買って来るように指示した男だ。
「あ~、ツキダ君、ゴメンね。それは良かった。ウチらもね。新人君と一緒に食べて来ちゃったの。弁当いらなかったよ。あ、彼ね。本社から研修でやって来たナラセ君です」
「はあ、よろしくお願いします。わたしは、ツキ……」
「ああ、もう始めちゃって下さい。ナラセ君、悪いね。どうも、しょっぱなの仕事が、プレゼンの評価なんてね。で、でも、まあ、聞いてるだけだから、いきなりで、よくわからないと思うけど、気になる事があったら、どんどん質問して下さいね」
 眼鏡の男はシステム部の課長だ。最近、白髪の男の太鼓持ちを始めて、急激に幅を効かせて来ている男だ。
「えー、では、始めさせて頂きます。今回、我が社が買い取った、この土地に建造する予定の介護施設についてです」
 ツキダは額に汗をうっすら浮かべている。すでに背中は脂汗でべっとりとしていた。
 眼鏡の男が、
「え? っと……あの、その……お手元の資料とか……そういうの、ないんですか?」
「……はい、すみません。その……ちょっとありません……」
「あっ、そう……ですか……はい、何でもないです。続けて下さい」
 眼鏡の男は、スクリーンの方を向いた。
 手元の資料がないのなら、プロジェクターが用意されている事だし、スクリーン上だけで説明するのだろう、そう考えるのは尤もだった。
 しかし、ツキダは、どんなに探しても、作ったはずのファイルを見つけられずにいた。
 検索をかけてみるが、ヒットしない……
 白髪の男は携帯をいじり始めた。
 眼鏡の男が不服そうに、スクリーンを見ては、こちらを見る、というのを繰り返している。
 新人のナラセは……
――携帯見てるよ! お前もか!
 ツキダは一瞬、腹を立てたが、丁度良かった、思い直す。今となっては、ずっと黙っていてもらった方が有り難いのだ。
 このまま、記憶を頼りに話すより仕方がない。
 これから一時間あまり、説明を続けるのか……何も資料がない中で……
 ツキダは気が遠くなった。


 ビルメンテの男たちは地下に潜ってから、テレビを一切見ていない。
 ビルメンテの男と若い同僚は送られて来たイラストを見ながら、開け放たれたパネルのスイッチと見比べていた。
 送られて来た画像には、三流芸人がメイクされながら、鏡を前にフリップを持っている姿が写っていた。
「あれっ? この人、ピーターパンの人じゃねぇか?」
「えっ! ……ですねぇ……先輩、よくわかりましたね」
「俺、この人、好きだったからさぁ、すっげー面白かったよなぁ。でも最近、見ねぇな……」
「ですねぇ……」
「この人、絵ぇ……うめぇよな。パネルの絵、すげーリアルだよ!」
 さきほどまで、首筋に冷たい汗をかいていたビルメンテの男だったが、イラストが届いてからは、落ち着きを取り戻し、作業着の袖で汗を拭いている。
「よし、ここだ! わかった、わかった。じゃ、じゃあ……い、行くぞ!」
 ビルメンテの男は若い同僚の方を一瞬見てから、パネルのスイッチに手を伸ばした。
パッチン!

 小さな会議室の中、何も映っていないスクリーンを前にして、支店長の白髪の男とシステム部の眼鏡の男、そして新人のナラセを前にして、ツキダのプレゼンが続いている。
 ツキダには、この三人が自分の話を聞いているとは、どうしても思えなかった。
 白髪の男が、自分の携帯を眼鏡の男に見せている。
「ほらほら、上がって来たよ。もうね、ここ数ヶ月、ずっと下がってたんですよ」
 眼鏡の男が、人差し指で眼鏡をあげながら、
「えぇ……と……株? ですか?」
「そうそう。ちゃんと決算書を見て買ってるんですよ」
「へ~、すっごいですねぇ。私、決算書なんて見た事ないですよ」
「ハハハ、まぁ、職業柄ねぇ、うちの場合、規模が小さいからねぇ、私も経理やりますから……」
「へ~、やっぱり決算書とかわかると、これから上がる株って、わかるものですかぁ?」
「……まぁね……長い目で見るとね……やっぱりね、決算書が良いヤツ、上がると思いますよ。これなんて数ヶ月、下がりっぱなしだったけど、昨晩から上がりっぱなしですよ」
――断末魔じゃねぇのか?
 ツキダは意地悪く思うが、当然口には出さない。白髪の男は嬉しそうに肩を小刻みに動かして笑っているが、どこか虚脱感が漂っている。
 新人のナラセは、相変わらず、ずっと携帯を弄っている。
――どうせ聞いてねぇなら、さっさと、終わらせるか。
「えーつまり、この介護施設は、画期的に小さな水族館も併設して、お年寄りたちに癒やしを与えると共に、外からの入場者も入れてしまおうと。さらに砂浜を作ろうと思います。海はなくても、人間が砂浜に寝そべったり、砂を弄ったりするだけで、癒やしが得られるはずです。さらに浴槽とプール用に井戸を掘るつもりです。これで、水道代などの節約が……」
 新人のナラセが携帯を弄りながら、
「あの有名な水族館のガラスの壁って何センチですか? 規模によってですが、コストが、かかり過ぎませんか?」
 ツキダは聞いていないと思っていたのに、いきなり質問されて、狼狽えた。
「えぇぇ……その……壁の厚さは、あとで確認しておきますが、そのコストの方は入場料でまかないますので……」
「それって、本当にお年寄り達の癒やしになりますか? 子供連れとか、かなり煩いですよ。たまになら許せても、毎日じゃ、かえってストレスになりませんか?」
 白髪の男が、携帯を見ながら、
「そうそう、ツキダ君、水族館は良くない。良くないねぇ。うん……えぇ? ちょ、さ、下がった!」
 システム部の眼鏡の男がいつの間にか、座ったまま眠っていて、白髪の男の声でビクンとした。
「今、調べたんですけど、アクリル材で六十センチあるそうですよ。あと水族館の海水って、透明度を保つために、わざわざ、プランクトンがいない遠海から運んで来るそうですよ」
 ナラセが携帯から目を話さずに言った。
「えー水族館の方は、後ほどさらなる調査を継続することと致しまして……」
「あの、砂浜なんですけど、屋外だと……」
 ナラセが躊躇して言葉を止めた。ツキダは観念して、どうぞ、どうぞ、とナラセを促す。
「ちょっとケチつけるばっかりで、恐縮なんですけど、猫とか来ませんか? その……トイレにされちゃうと汚いかなぁ……って、すみません、何か対策立てられてるんですよね……」
 相変わらず携帯から顔を上げない。
「えー砂浜は水族館の中に作りまして……そのー水族館が外壁になっていますのでー」
「ツキダ君、水族館は建てないよ。水族館は……おっ! また上がって来た!」
 白髪の男が携帯を見ながら、口を挟む。
「えっ! ……それ決定ですか?」
 それまで眠っていた眼鏡の男が、ビクンとした。
「それと、その井戸の件ですけど、コスト的にどうなんですか?」
 ナラセは携帯から目を話さずに、さらに質問した。
「いえ、ご存知のように、このフガク州は、州境に広大な湖を持ちながら、先の道州制改革のドサクサで、わがサカオガワ州が水利権を握っていますから、こちらの水道代はわがサカオガワ州の三倍です。井戸を掘っても十分にペイ出来るかと」
 ツキダは、ご存知のように、とは言ったものの、この若造は何も知らないな、と思っていた。
「あっ、でも水利権の話し合いも、かなり進んで近々、共有協定が結ばれる、って噂がありますよね」
 ツキダは目を白黒させながら、
「えっと、それは根も葉もない噂じゃないですかね。その話は、実は道州制改革の前から、もうかれこれ五十年以上争ってますからね。なかなか、ここに来て妥結するとは思えませんけど……」
 ツキダは、思わぬ伏兵にジリジリと後退しながら、撤退のチャンスを覗っていたが、ナラセは携帯を見ながら首を傾げて、
「飲料水はどうなりますか? 大学で最近、こちらで水質調査していた教授がいるんですけど、なんか先日の地震の影響なのか、こちらの地下の水質に変化が起こっているそうですね。メタンガスの混入が増えているとか……そうなって来ると、風呂やプールの水も危険になって来ると思うんですが、こちらの水質調査では出てませんか?」
 ツキダは完全にノックアウトされた。
「え……と、貴重な情報提供ありがとうございます。検討事項に加えさせて頂きます……」
 ツキダは話を続けようか迷っていた。これ以上、ボロを出したくない。
 その時、白髪の男が、時計を見て、ハッとした表情してから、胸の内ポケットから、長財布を出した。
 その財布の中から、カードを十枚以上取り出して、机の上にバラバラと広げ始めた。
 暫く、一枚一枚、目に近づけたり、離したりしながら、見ていたが、一枚選び出すと、電話をかけ始めた。
「あのね、予約、そう、四人です。大人一人と子供三人、なんっちって……ハハ、ウソです、はい、大人四人で……では、よろしく」
 電話を切ると、広げてあったカードをまとめて財布に入れた。
「ナラセ君、この店ね、カラオケあるから、歌って下さいよ。ま、恥ずかしかったら、別に無理する事はありませんからね」
 ナラセは、一瞬、照れくさそう表情をして見せたが、すぐに、
「う~ん……なに、歌おうかな~」
と嬉しそうに、携帯を弄り始めた。
 どうやら、歌の検索を始めたようだ。
 白髪の男は、ナラセが喜んでいる様子を確認すると、ほっとしたように、
「ナラセ君、二次会なんですけど、どういうところが良いですか? やっぱり綺麗なお姉さんが一杯いる方が良いよねぇ~」
「いえ……あの、普通で……」
「もう~そういうの、流行らないですよ。ナラセ君」
 白髪の男がナラセの肩を肘で突いている。
 ナラセは困ったように、ヘラヘラ笑いながら、頭をかきながらも、視線だけは携帯を見続けている。
 目が輝いた。何か、歌いたい曲が見つかったようだ。何か、チェックを入れるような仕草をしている。
 その時、ナラセの携帯が鳴った。
 発信先のを確認すると、露骨に不機嫌そうな表情を見せて、フーと鼻息にも似た、ため息をついて、
「ちょっと失礼します」
と言って席を立つと、窓際まで歩いて行った。
 音が漏れないように手で口元を隠しながら話し始めている。
 白髪の男がナラセの後ろ姿を見ながら、また胸の内ポケットから長財布を出した。
 今度も中から十枚以上カードを抜いて、机の上にバラバラと並べ始めると、その中から、人差し指で、ずらすように一枚上げた。
 今度の動きは素早かった。
 カードを見ながら電話をかけ始める。
「あのね、予約、そう四人……」
 その時、白髪の男がチラリとツキダを見た。ツキダが大きく手を振ったのを確認して、
「と思ったけど、ゴメン、やっぱり三人で。はい、えっ? キャンセル料? そんなの取るんだ? はいはい、わかりました。はい、こちらの携帯の番号ね……」
 ツキダは、どうせ誰も聞いていないならと、話を続けた。
「え~、水族館とプールと井戸の水の管理は、今まで通り、我が社が構築したシステムで一元管理することを予定しておりまして……」
 システムという言葉を聞いた瞬間、眠っていたはずの眼鏡の男が目を覚ました。
「あ、それね、システム的に問題があると思いますよ。そういうシステムはね、一元管理しちゃいけないの。分散しないとね。何かあったら、全体に影響が出ちゃうでしょ。そう物理的にね、物理的に切り離すのが一番安全なの。ちょっと調べてみると、その辺わかるから。ちゃんと、その説明、うちのグループウェアに共有で上げておきましたよ。読んでないでしょ。まあ、と言っても、内容は、あるサイトのパクリだから、である調をですます調に変えただけだから、元ネタチェックした方がわかりやすいかも、だけど……」
――それじゃ、ダメだろ!
と突っ込みたいが、なにしろ眼鏡の男の指摘を調べるにも、パソコンを再起動しなければならない。
 ツキダがモタモタしている間に、いつの間にかに電話を終わらせていたナラセが調べを済ませた。
 どうやら、眼鏡の男の指摘が正しいらしい。
 眼鏡の男が薄ら笑いを浮かべながら、
「でしょ」
と得意そうに眼鏡を上げた。
 当初、ツキダはどうせ誰も聞いていないのだからと、開き直って、少し気持ちが楽になりもした。
 早口でまくしたてて、時間が通りすぎるのを待てば良いのだ。
 いずれ、白髪の男が、
「ツキダ君、じゃあ、その辺については、また今度ということで……」
 なんて言って終わるのだろう、と……
 しかし、その考えはとんでもなく甘かった。
 確かに白髪の男は聞き流す気だったのだろう。
 眼鏡の男は、ほとんど眠っている様子だったが、ことシステムの話になると、決まって、目を覚まして、鋭い指摘をしてくる。
 ナラセもそうだ。ずっと、携帯を弄って、話を聞いていないのかと思いきや、細かい数字を調べては逐一訂正してくる。
 そして、厄介なのが、ナラセは、次から次へと質問を繰り出してくるが、全てが的確というわけでもなく、中には、意味不明のものもあったが、誰も、それを指摘しない。
 聞いていなかったのか、聞かなかったふりをしているのかはわからないが、誰も突っ込まない。
 ツキダは突っ込むべきかわからず、その手の質問には全て、後で確認しておきます、と答えて逃げてしまっていた。
 ナラセの質問の大半は的外れで、本人を傷つけないように、やんわりとかわせば事足りたが、たまにとんでもない急所を突いて来た。
 確かに、それは調べておかないと、自分の主張の土台がひっくり返る、と認めざる負えないような内容だった。
 眼鏡の男が、
「う~、あと……水族館ね~、環境映像で十分じゃないですか? 大きなスクリーンに映せば、コストかからないでしょ」
 どうです? 私、そういう事も考えていますよ、とアピールするように、白髪の男の顔を見る。
 しかし、白髪の男は手元の携帯を見て、眉間にしわを寄せている。
 残念そうな表情を見せながら眼鏡の男が話しを続ける。
「でも、そうなると……うちの今のシステムだと、容量が足らなくなるね。もう、ギリッギリまでスペック落としてるからね。そういう開発だからね、うちのは……」
 そのとき内線が鳴り、眼鏡の男が取ると、
「急用だそうで、ちょっと失礼」
 と言って会議室を出て行った。

 ツキダは内心救われた思いで、眼鏡の男を送り出して、また誰にも気づかれないように、そっと話を再開した。
 そのツキダの小声のプレゼンに被せるように、それまで、眉間にしわを寄せながら、無言で携帯を見ていた白髪の男が、
「ええー! 何これ! 下がってる、下がってる、もの凄い勢いで下がり始めたんですけどぉ!」
と騒ぎ出した。
「何これ? 見てなかったから? そうなの? ちょ、ちょっと、ツキダ君、そのプロジェクターで私の株、映してよ。それで、ちょっとみんなで応援しましょうよ。わかってる、わかってますよ、そんなの無意味なのわかってますよ、さっ、ツキダ君! 早く映して!」
 ツキダは慌てて、画面を映し出そうとして、プロジェクターのスイッチを入れた。
 どういうわけか、画面には、鳩が激しく羽ばたいている映像しか映らない。
「もう、何? これ? 早くツキダ君、ああ! また下がった! 早く、早くツキダ君、何してるの? どうして、鳩しか映らないの?」
 ツキダは、何が何だかわからず、パソコンのをキーボードを狂ったように叩いたが、相変わらず、スクリーンには、何百という鳩がバタバタと羽をぶつけ合いながら、飛んで行く映像しか映らない。
 やがて痺れを切らした白髪の男が、
「解散! かいさーん! 今日のプレゼン終わりぃ~!」
と言って、会議室を出て行った。
 新人のナラセも慌ててツキダに一礼して、白髪の男を追って行く。
 小さな会議室には、バタバタと羽をぶつける鳩の映像と、ツキダが一人残された。

 金髪の男が川で倒れている。
 そこへ、何かのエンジン音が聞こえて来た。ヘリコプターが金髪の男を発見したのだ。
 ヘリコプターから縄梯子をつたって迷彩服を着た者が降りてきた。金髪の男に近づいて、金髪を鷲掴みにすると、思い切って引っ張った。
 ズルっと金髪がはずれた。
 頭の後にバーコードのようなチップが付いている。
 戦闘服の男がバーコードリーダーのようなものを出して、男の後頭部に当てると、電子音が鳴った。
 戦闘服の男が、上空のヘリコプターに向かって、OKのサインを送る。
 金髪の男の体にベストを着せて、ベルトを閉めると、縄梯子にワイヤーを固定させた。
 戦闘服の男が梯子を掴み、一度グイッと下に引張り、ヘリコプターの乗員に合図した。
 ヘリコプターが二人を引き上げて飛び立って行った。

 システム管理室では、眼鏡の男が新人のナラセのために講義している。
 白髪の男から、飲み会までの間、つなぐように指示されたのだ。
 最初こそ、眼鏡の男が自分の独壇場だと言わんばかりに、一方的に話していたが、やがてナラセが本領を発揮し始める。
 ここでも、ナラセの素朴な質問が火を噴き、眼鏡の男がジリジリと撤退する構図が繰り返されていた。
「これって、もし、この閏年の時のバックアップのプロセスと通常のバックアップのプロセスがぶつかったら、どちらも実行されない事になりませんか? メモリを節約するのは良いですけど、ここまで削ちゃって、肝心のプログラムがロードされないって事になると本末転倒ですよね」
 眼鏡の男はうなだれながら、ナラセの話を聞いている。
 終業時間になり、白髪の男とツキダが呼びに来た時、眼鏡の男は屈辱に耐え切れず震えていた。

 四人が連れ立って、予約した店の前に着いた。
 その店は、昼間、ツキダが弁当を買わされた割烹料理屋だった。この辺に店は多くない。誰かを接待しようと思うと、使える店は限られていた。その店の味は保証付きだが……新鮮度は疑問だ、とツキダは思っている。しかし単に自分の体調が悪かったせいかもしれない。いずれにせよ、ツキダは食べていない事になっているのだから、何も言えない。
 先に入った白髪の男が大声で怒鳴り始めた。
「予約が入っていない? えっ! 今日、何日? えっ? あっ! 勘違いしてた。それ明日か。今日空いてない? 一杯、ねぇ、そこを何とか……」
 支店長の日付の勘違いのせいで、四人は路頭に迷う事になった。
 白髪の男が、どうしましょうね、どうしましょうね、とパニックになっている。
「えっと、私、穴場、知ってるんですけど、そちらに行きましょうか?」
 眼鏡の男が、人差し指で眼鏡の中央を上げた。
 選択肢もないので眼鏡の男の言う穴場に行く事になった。
 ナラセが、車を出す、と言い出したので四人が乗る。
 眼鏡の男の指示に従って、着いてみると、そこは健康ランドだった。
 眼鏡の男が受付に行き、嬉しそうな表情で戻って来て、空いてました、空いてました、特等席ですよ、とはしゃいでいる。
 案内された部屋に入ると、少し大きめの宴会場だった。ちゃんと舞台もある。少なくともツキダが今日一日格闘していた会議室の四倍の広さがあった。
 ツキダが、宴会場の隅にノートパソコンを置き、小型のプロジェクターを置くと、白髪の男が驚いて、
「まさかと思うけど、宴会中に、プレゼンの続きやったり、仕事始めたりしないよね」
 ツキダは、ドキリとした。雰囲気によっては、或いは、と思っていたからだ。
「も、もちろんですよ」
 大きな宴会場に四人……しばらくして、何とも寂しい雰囲気になった。
 取り敢えず四人は浴衣に着替えて、居心地の悪い雰囲気を払拭しようとした。浴衣にはそういう力がある。
 眼鏡の男が、鞄の中から小さな竹編みのザルを出した。ツキダの方を見てしきりに眼鏡を上げている。
 ここまで来る車中、白髪の男が助手席に座りナラセと話をしている間、後部座席でツキダは、眼鏡の男から、散々、システムのバグを見つけられた、と愚痴をこぼされ、このままではまずいから名誉挽回をしなければ、と聞かされていた。
 多分、その答えがこれから始まろうとしているのだ。
 どこからか、おかしなメロディーが聞こえて来た。
 舞台を見ると、舞台の片隅に置かれた眼鏡の男の携帯から音が流れていた。
 浴衣の裾をパンツに入れて、手ぬぐいでほっかむりした眼鏡の男、ちゃんと五円玉を鼻の頭に当てて耳で縛っている。どこで覚えのたか、眼鏡の男のどじょう掬いが始まった。
 暫く呆然と見ていたナラセだったが、突然、携帯を見ながら席を立ち、宴会場から出て行った。トイレだろうか?
 眼鏡の男は、一瞬動揺してナラセの背中に鋭い視線を注いだが、すぐに白髪の男を見ながら演技を続けた。
 気合が入り過ぎていて笑えない。
 白髪の男も暫くの間、呆然と舞台を見ていたが、やがて……
「ツキダ君も何かしないとねぇ……」
と呟いた。
 ツキダは今まで、この手の宴会に顔を出した事がない。
 特にサカオガワ州の本社から、このフガク州の支社、支店と飛ばされてから、飲み会に誘われても、全て断って来た。
 早く本社に戻りたい一心で、一つでも多くの資格を取ろうと、仕事が終わると、すぐに自宅に帰り勉強している。
 フィナンシャル・プランナー、社会保険労務士、簿記、カラーコーディネーター、プログラマー管理士……かなりの資格を取得したが、一向に本社に復帰出来そうもなかった。そして、その事がさらにツキダを勉強へ向かわせた。
 そんなツキダも今日は、断る事が出来なかった。
 新人研修の担当にさせられた、という理由からではない。
 ツキダは元々、その手の親睦という名の馴れ合いが大嫌いだった。それよりも、やっと久しぶりに仕事らしい仕事が回って来たのに、その仕事に失敗した、という事の責任の方が重くのしかかっていた。確かに資料は作ったはずだった……
 全ては、あの昼間のおかしな番組のせいだ。もしかすると、うっかり、ファイルを削除してしまったのかもしれない。いや、プログラムの勉強のために作った鳩の動画の重ね合わせプログラムにバグがあり、そのせいで、パソコンが動かなくなったのかもしれない。
 失敗の理由はどうあれ、白髪の男から、ツキダ君も今夜は参加してもらわないと……と鋭い目で睨まれると、思わず、はい、と答えてしまっていた。
 その男がまた鋭い目をツキダに向けて来て、聞いて来た。
「何なら出来る?」

 暫くして、ナラセが戻って来たが、その頃には、眼鏡の男のどじょう掬いは終わっていた。
 ツキダは、舞台に上がり皿回しを始めた。学生時代に習得したものだ。皿が三つなら、それほど難しくはない。しかし感動もなかった。
 白髪の男が、いつ皿を割りはしないかと、ハラハラした様子で見ている。
 眼鏡の男は、部屋の片隅で鞄に竹編みのザルをしまい、鼻から五円玉を外している。
 ナラセは戻って来てからも、ずっと携帯を見ている。
 ツキダは、そんな宴会場の様子を見回しながら、いっそのこと、落として割ってしまおうか、という魔の誘惑と戦い始めていた。
――さぞや、胸がすっとするだろう。
――いかん、いかん! 昼間、この勢いで弁当を食べてしまって後悔したではないか。
 いや、結局、アイツらが外で食べて来たおかげで、無罪放免だったではないか。
 いやいや、今度、割ったら、みんなが自分に注目するのは確かだが、健康ランドの店員が来て、あたふたとして、しまいには、あの白髪の男にまた、
「本当に君は何にも出来ないんだ」
と言われるのがオチではないか。
 そんな魔の誘惑と戦っている間に、気が付くと、ツキダは完全に皿回しをやめるタイミンミグを逸していた。


 女優が、大使館の地下一階に設置された射撃練習場にいる。
 丹念に撃ち続ける女優の後ろ姿を、着物の男がじっと見ている。
 女優がゴーグルを外しながら振り返り、
「手が震えるわ……ちょっと聞いてよ! あの三流ディレクター、私にスコップで穴を掘らせたのよ! 信じらんないわよ。私、女優よ!」
 着物の男が、
「その設定、もう幕が降りてますよ……結構、気に入ってましたぁ?」
「何よ! こっちが副業よ。アタシはこっちを演じてるの!」
 着物の男がヤレヤレといった仕草で、
「もう、良いんじゃないですか? そんなに腕は落ちてないし、次に行きましょうよ」
「失礼ね。落ちてるわよ。まあ、良いわ、こんなに震えてちゃ、ダメね。ちょっと待ってて、いま着替えるから」
「えっ、そのままで良いですよ。下で待ってますよ」
「もう……こういうのは、気分が大事なのに……」

 暫くして、地下二階、全面畳ばりの道場で待っていた着物の男の前に、真っ白い道着を来た女優が現われた。
「遅いですよ、待ちくたびれましたよ」
 着物の男が呆れたように言った。
「さっ! どこからでも、かかってらっしゃい!」
 着物の男が女優の襟元をつかもうとした瞬間、女優がその腕を掴み関節を決めた。
「いてて……」
 着物の男が自分が決められた腕を叩いて、参った、の意思を表した。
「次!」
 女優のハスキーな声が広い道場に響き渡る。
 着物男が一旦、体勢を低くしてから、飛びかかる振りをしてから、そのまま沈み込み、足払いに行く。
 女優はその足を自分の足の裏で押さえて、そのまま体重を乗せた。
「いてて……参った、まい」
「次!」
 しばらく、そのような乱取り稽古が続き、いつの間にか二人は汗びっしょりになっていた。
「は~、は~、規定ではもう終わりの時間ですけど?」
 着物の男が息を切らしながら、時計を見上げている。
 規定により、任務直前のエージェントは、所定の訓練を受けなければならなかった。
「そうね、シャワー浴びて、もう出ないとね」
「え? もう出るんですかぁ? もう少し時間があるんじゃ?」
「あんたみたいなキャリア組と違って、アタシはしくじれないの。わかったら、部屋に篭って、お仕事して頂戴!」
「まあ……そう言わずにさあ……二十分……いや十分……」
 着物の男の手が女優の腰に触れた瞬間、女優が体をずらしながら、一気に腰を捻りながら背中をぶつけた。
 着物の男はバランスを崩し、倒れながら、受け身を取り、小気味のよい畳の音が場内に響いた。
 広い道場の中央に、大の字に倒れた着物の男が残された。

 ツキダの皿回しは続いている。
 白髪の男が、そわそわと落ち着かいない様子で、
「ちょっと、料理遅くないですかぁ……」
と言いながら、宴会場を出て行った。
 眼鏡の男は、暫くツキダが回している皿を見ていたが、携帯を見ているナラセに、
「ね、ナラセ君、私の……見てました?」
と聞いている。
 ナラセが、
「ええ、まあ、地元の盆踊り……ですかぁ?」
と言うと、眼鏡の男は、露骨に不機嫌そうな顔になり、
「ちょっとトイレに……」
と言って宴会場を出て行った。
 広い宴会場の中で二人、相変わらず携帯を見ているナラセと、依然として皿を回し続けているツキダが残された。

 眼鏡の男がトイレに入ると、一つだけ閉まっている個室があった。
 その個室の中から、
「おいおい、まだ下がりますかぁ!」
と聞こえて来た。
 聞き覚えのある声、白髪の男の声だ。
 眼鏡の男が、
「店長、夜なのに、まだ市場って開いてるんですかぁ?」
と聞くと、
「えっ! 君も来ちゃったの? 駄目だよ。あの二人だけにしちゃあ。まあね。ADRって言ってね。アメリカに上場してる株の影響も、もろに受けるんですよ。あっ! もう、ふざけんなよ」
 眼鏡の男は、やれやれ、といった表情で、
「店長、先に戻ってますから」
と言ってトイレを出て行った。

 着物の男は、大使館の中で、あてがわれている自分のプライベートルームに戻っている。
 プライベートルームと言っても、その部屋の大きさは、仮眠用のベッドとデスクが入れば一杯の狭いものだった。
「はいはい、わかりましたよ。お仕事、やれば良いんでしょ。俺らキャリア組は、安全な温室で情報収集に励めってな……」
 女優に振られた腹いせに、ブツクサと不平を言いながら、デスク上に置かれているパソコンの前に座った。
 これから、数時間、情報収集の仕事だ。今日は、泊まりがけになりそうだと、気分が落ち込み始めた。
 爆破計画に関しては、もはやする事はない。
 しかし着物の男は、何か重要な点を見落としているように感じていた。
 それは、公の仕事というより、個人的な事のような気がする。
 女優に振られた事で、大いにプライベートな部分が刺激されたのではないか、とも感じている。
 果たして、それが何なのか、考えても一向に湧いて来るものがない。着物の男は、仕事を続けながら、悶々とした気分を抱えていた。

 三流芸人の女が、大きな鏡の前で、母親に着物を着せられている。
 母親は怒りが冷めやらぬ様子で、着付けながらも小言が止まらない。
「もう~、アンタって子は! どんどん芸が下品になって行くわよ。何なの! 今日のムチ! お母さん、テレビ見て、顔から火が吹いたかと思ったわよ。それも文化会館の大画面だもの……あんた出ること隠していたでしょ! お母さんが日舞の時間だと思って……今日、早く終わったのよ。も~、今日はお師匠さんに褒められて、最高に良い気分だったのに……もう泣きたいわよ!」
 母親が、力一杯、帯を締めた。
「ぐ、苦しい……」
 母親が慌てて少し緩める。
「も~、ママ勘弁してよ~~、今日はディレクターにも嫌味言われるし、ネットでもディスられて、滅茶苦茶へこんでるんだから~」
「アンタ、前の何だっけ? ピーターパン? ああいう芸でやって行けないの?」
「ママ、あれは一発芸なの! その筋から散々クレームが来たんだから、あの辺が潮時なんだって。あれ以上やってたら、絶対訴えられてたよ~」
「じゃあ、アンタ、もう、お嫁に行きなさい。ねっ、悪いこと言わないから、アンタ、芸人に向いてないわよ。ねっ?」
「頑張ってる娘に、そ~ゆ~こと言うかなあ~」
「何、言ってるの! こんなこと、親だから言うんでしょ。ほら、何だっけ? これから、なんか粋な感じの人とネットお見合いするんでしょ?」
「ちょっと、ママ……」
 三流芸人の女が吹き出して、
「ネットお見合いって言わないでよ。SNSで最近、絡んでた人と、顔見せしようって話になっただけだよ~」
 三流芸人の女はニヤニヤしながらも顔を赤くしている。
「もう、良いから、その人に貰ってもらいなさい!」
「も~、ママ、乱暴だな~、気が早いって、まだ始まってもないって」
 母親が着付けを終えて、娘の姿を前から後ろからと眺めて、納得したように、ポンと娘の背中を叩いた。
 三流芸人の女は、気合を入れるように、コクっと頷き、
「ママ、来ないでね。絶対よ。絶対ダメだかんね」
と言ってから、自分の部屋に入って行った。

 電気をつけると、部屋の中は、細々とした小物で溢れていたが、その一つ一つは奇麗に整頓されていた。
 小さなクローゼットの脇に置かれている姿見に、もう一度、全身を写して、様々な角度から見て、鏡に顔を近づけたり、遠ざけたりをさかんに繰り返している。
 机の上に乗っている小さなノートパソコンに電源を入れた。
 少し型が古いタイプで起動するのに時間がかかる。
 一度、椅子に座りかけたが、もう一度、姿見の前に正面から立ち、両手を体の前で重ね、深々と一礼した。
 今度は真横を向いて、一礼しながら、目だけは姿見を見ている。
 壁に頭をぶつけた。慌てて、鏡に近づき、髪型を直している。
 パソコンが起動したのを確認してから、椅子に座ると、カメラに映った自分を確認する。
 机から少し椅子を後にずらして、今度は座ったまま一礼した。
 着物の襟元を正してから、時間を確認した。一度、目を瞑ってから、大きく見開くと、パソコンの画面上のボタンをクリックした。

 魚市場の女が、ロープウェイの終着駅で降りると、懐中電灯を片手に山道を登り始めている。
 突然、グウーっとお腹が鳴った。鞄からリンゴを出して、ガリっと齧りついた。
 夜の山は怖い。暗闇の中で自分が齧ったリンゴの音に怯えた。
――さすがに一人でここは……
 父親と何度もハイキングで来た場所だったが、まったく違う場所に感じた。
――帰りたい……
 しかし、父親のメッセージを信じて歩き続けるよりない。
 それにしても坑道の入り口が見つからない。入り口さえ見つかれば、坑道内の地図を持っているので迷わないはずだが……
――あれっ? 駅を降りてから、下るんだっけ? あっ、やばい!
 その時、後方から歩いて来る人の灯が見えた。
 魚市場の女は、すぐに自分の灯を消して、山道脇の木の陰に隠れた。

 ババアが大汗かいている。
「あ~、もう! ぜんぜん、進まないわ~」
 翌日に開催される公開演説の原稿が一向に進んでいないようだ。
 再び思い切って、
「あの……もし、よろしかったら、私が草案だけでも……」
 言い終えるのを遮って、
「ダメよ、そんなの! あんたは余計な事しなくて良いの!」
 血相を変えて怒鳴られた。
――もう! こんなに調子悪いんだから、無理しなくても良いのに……
 それに、ババアが昼間に受け取った情報も気になる。それを教えてくれれば、すぐにでも草案くらい書けるのに……
 変なところで、秘密主義になるのでイライラする。
「あ~、それにしても熱いわね~、シマモ~、暖房、効き過ぎ! ちょっと、限度を考えないさいよ。これじゃ、サウナよ!」
 もう! ババアが寒い、って言うから、こっちは汗だくになりながら、我慢しているのに! と思いつつも温度を下げた。
「リンゴ! リンゴ、もう冷えたでしょ。冷たいヤツ持って来て」
 ババアが、さきほど、急にリンゴが食べたいと言いだしたため、急遽買いに行かされたのだ。
 買って来て、剥いてやると、生ぬるいから冷やしておけ! と言う。
 しまいには、どうして冷えたヤツを買って来ないんだ、と怒りだした。ミカンと勘違いしてないか? 冷凍ミカンなら、聞いた事があるけど……
 冷蔵庫で冷やしたリンゴの皮を剥いて、皿にに入れて持って行くと、まるで、自分の憎々しい熱の根源を破壊してやる、と言わんばかりの形相で齧りついている。
 寝顔は可愛かったが、食っている顔は可愛くない。
 いつもは? ……覚えていない。そんなに、いつもババアの事ばかり見ているわけではない。

 ツキダが、舞台の上でサンドイッチマンのような格好で、ダンボール箱を肩からかけていた。
 ダンボールの中央には三重に円が描かれ、的になっていた。
 白髪の男が、健康ランドの店員に捨てるダンボールをいくつか持って来させて、眼鏡の男がマジックで円を描いたのだ。
「ツキダ君、どうも芸がね……ナラセ君も参加する感じにしてさ。そういう絵が欲しいんですよ。こう……何て言うのかな……盛り上がってる感じ? 君らが芸やっても、彼、ずっと携帯見てるでしょ……ここは一つ、一肌脱いで下さいよ。写真は彼が取ってくれるから……」
 眼鏡の男が、任せて下さい、と言いながら、いつもより余計に眼鏡の中央を上げた。
 いつの間にか、ダーツが用意されている。下の売店で売っていたらしい。
「もう一枚、ダンボール、重ねてもらって良いですか?」
 ダーツの先端が鋭利に光っているのを見て、ツキダが怯えている。
「えっ? 大丈夫、大丈夫。ちょっと浮かせて持っていれば良いから。あんまり厚くして、刺さんないと、まずいでしょ」
 白髪の男の目が冷たい。
「おっ! ナラセ君、登場~!」
 眼鏡の男が、トイレから帰って来たナラセを迎えて、大げさに拍手した。

 着物の男の基本的な仕事は、サカオガワ州の住人からの情報集取である。
 出来るだけフィルターのかからない情報が望ましいが、なかなか普通のメディアではバイアスがかかているので、分析に時間がかかる。
 その点、SNSは、マスコミを通さずに、直接、生の声が拾えると思い、毎日、数時間は、色々と書き込みをしながら、これは、と思った人物と情報交換していた。
 しかし、たまには会話が盛り上がるのと反比例して、睡魔に襲われ、面倒な約束をしてしまう事があった。
 ヤレヤレと思いながらではあったが、今夜は女優に振られた事で幾分、楽しみでもある。
 対面の時間が来た。
 約束の時間になり、画面上のボタンをクリックすると、着物姿の女が映し出された。

 ナラセが、的を目掛けてダーツを放つ。
 ダンボールを突き破る、ボスッ、という間抜けな音と共に、白髪と眼鏡の男が歓声を上げた。
 的のど真ん中に刺さっている。
 ツキダが肩からぶら下げた的の中央には、既に五発も刺さっていた。
 眼鏡の男が、
「ナラセ君、上手い! ダーツバーとかに通っていた口でしょ!」
 白髪の男が、眼鏡の男を肘で突いて、写真を忘れないように促した。
 慌てて眼鏡の男が携帯で撮影している。
 白髪の男が、
「さー六投目!」
と叫んだ。
 その声に釣られるようにナラセが額に汗を浮かべ、慎重な様子で、的を狙っている。
 ナラセが投げると、そのダーツは吸い込まれるように的に当たる。
 ツキダはだんだん馬鹿らしくなって来ている。何の事はない。ダンボールを持っているのは自分なのだ。しかも歩ける。ほとんどキャッチボールしているのと変わらなかった。
 ナラセはわかっていて、付き合っているのだろうか。彼は勘が良いのか、鈍いのかさっぱりわからない。
「あの~、ちょっと汗かいたんで、風呂に入って来ても良いですか?」
 ナラセが額の汗を拭きながら言った。
「お~、お~、そうだよ~、ここ健康ランドだもんね。風呂に入らないとね。じゃ、ツキダ君、二人で行ってらっしゃい。私は料理待っているから。それにしても料理遅いね~」
 白髪の男が眼鏡の男をチラリと見た。
 眼鏡の男が慌てて、宴会場を出て行った。

 三流芸人の女が深々と一礼した。
 ノートパソコンの画面には、着物姿の男が映し出されていた。
「こんにちは、はじめまして」
 なるべく小さな声を出した。日頃の発生練習の成果で、気を抜くと太い声が出てしまうので、調整が難しい。可愛らしく聞こえただろうか?
 芸人は、第一印象が命なのだ。
 『三、四がなくて第一印象!』、芸人予備校の講師の言葉を思い出す。
 着物の男が、ああ、どうも、と適当な挨拶をしている。
「着物姿なんて奇遇ですね。実はアタシも普段、着物の事が多いんですよ」
 着物の男が、
「えっと……私、普段、着物って、どこかで、言ったような……えっと、あなたじゃななかったんですね。これは、どうも失礼」
 三流芸人の女は、ギク! っとして、胸を撫で下ろした。
――普通、一週間も前に、自分が言った事、覚えてるかぁー?
 三流芸人の女は他人に言われた事は、比較的、長いこと覚えている性質だが、自分の言った事は何故か忘れてしまう事が多かった。
 三流芸人の女は、ちょっと待ってて下さいね、と言うと、カメラから映らない位置に置いてある本をチラっと見た。
 本のタイトルは「恋のマニュアル・彼のマニュアル」と書いてある。
 付箋が張られているページを開くと、服装を合わせよ! 服装の趣味が似ている事をアピールせよ! と書かれている。
――これはOKと……。
 次に付箋が張られているページをめくると、あなたが一番得意な事をアピールせよ! 出し惜しみするな! と書かれていた。
 三流芸人の女は、着物の男を見ると、コクリと頷き、
「では、心を込めて歌います」

 ナラセとツキダは風呂からあがり、サウナに入っていた。
 入った瞬間、熱気と檜の香りに包まれて、小さな別世界に潜り込んだ快感があった。
 しかし、その気分も一分もしないうちに後悔に変わる。
――どうして、わざわざ、こんな場所に……
 ナラセとツキダの間には、これといった話題がない。この事と後悔は無縁ではない。
 どちらからともなく、入りますか? そうですね、という流れで、どちらが先に誘ったのかすら、定かでないままに、吸い込まれるようにサウナに入ってしまったのだ。
 五分も経つと、二人とも熱で意識が遠のき始めていた。
 ナラセが話かけて来た。
「えっと……あの、どうも、すみません。色々と気を使わせちゃって……」
 ツキダは、いえ、とだけ答えて、しまったと思い、慌てて否定したが、
「いいんです、いいんです。今回の研修も、きっと、どこも引き取り手がいなかったんですよね。実を言うと、僕、入社するか迷ってるんですよね。どうも踏ん切りがつかなくて……いや、すみません。こんな話、ちょっと頭が、ボーっとしちゃって……」
 ツキダは、携帯ばかり見ていたこの青年にも悩みはあるのだ、と知って、少し驚いていた。
「えっと……あっ、すみません、失礼ですけど、お名前、忘れちゃったみたいなんですが……」
 ナラセが、すまなそうに頭を下げた。
「いえ、忘れたんじゃありませんよ。本当に名乗る機会がなかったんですよ。申し遅れました。ツキダです」
「えっ? ツキダ?」
 ナラセが、一瞬、驚いて、マジマジとツキダの顔を見た。
 その目は、好奇心と懐かしさを秘めている。
「ツキダさん……て……珍しい名字ですよね……」
 ナラセは恐る恐る、探るように聞く。
「そうですね。あまりいないみたいですね」
 ツキダは、ナラセの変化に気づく様子もなく、しきりにサウナの温度を気にしている。少し暑過ぎると感じている。
「もしかして、元々サカオガワ州出身の方ですか?」
「そうです。こっちには出向で来てるんですよ」
とツキダは言ったが、内心、
――左遷だよ! しかも『左遷の左遷』な!
 ツキダは惨めな感情が絶対に漏れないように目を逸らした。でも、まあ、この青年にバレたところで、どうでも良いか、という気もする。
 それとも、この青年は、自分が左遷でここに来ていると知っていて、聞いているんだろうか? とも思ったが、多分、この青年なら、そういう嫌味なことはしないタイプだろうと思った。
 その事が幾分、救いにもなっている。
「えっと……お子さんは……」
 ナラセは、それまで人間に向けていなかった好奇心のすべてを一気に解き放つように、ツキダに食いついている。
「は、はあ……む、娘が一人。サカオガワ大学なんですよ」
 ツキダは、最近、他人から何かを質問されるという機会がめっきり少なくなり、サウナの熱に蒸されて上せている事を差し引いても、質問が心地よく感じられていた。
 ツキダが、サカオガワ大学と口にした瞬間、ナラセは目を見開いて絶句した。
「!」
 ナラセの予想が確信に変わった。
 しかし、ツキダは意識がボーっとしているせいか、ナラセの表情の変化に気が付かない。
「もしかして、フガク州に来てから、一度も帰っていませんか?」
「ええ……まあ……」
 ツキダは恥ずかしそうに笑いながら、
「ちょっと、通行税、高いですよね。とても、とても……私の安月給じゃ無理です」
 ツキダは首を振った。
 ナラセは、そうだろう、と同意するように、何度も頷いている。
「娘さんに……会いたい……ですよね」
 ツキダはしばらくサウナの壁の木目の先を見つめていたが、やがて、ゆっくりと、しかし、強い調子で、
「はい……会いたい……です」
と言った。
 ナラセは、そのツキダの横顔をじっと見る。
 ツキダの方は、ナラセの強い視線には気づかず、意識が途切れつつあるようだ。
 ナラセは、ツキダの横顔を見ているうちに、ある考えがもたげてきた。
 そして、その考えは徐々にはっきりとした形を成して来た。
 ナラセは、自分の額の汗を少しだけ、タオルを押し付けるように拭く、という仕草を小刻みに何度も繰り返し始める。
 暑さの中で、何事かを必死に考えながら、その度に、
――馬鹿げている!
と何度も自分を叱った。
 たまに、フーー、と息を吐く。
 そんな事を何度も繰り返しているナラセの横でツキダが、
「どうしました? 出ましょうか? いくらなんでも、あと五分で出ましょう。最初は、十五分も入れば十分ですよ」
 ナラセは、はい、と頷きつつも、心の中では、激しく葛藤していた。
――こんな事、思い付きで決めて良いもんか!
 しかし、やがてナラセは、とっくに自分の気持ちが定まっている事に気がついた。
 その瞬間、自分の心の奥底が、心地良い静寂で満たされて行くの感じた。
 ナラセは、顔じゅうに吹き出した汗を両手で勢い良く、こするように拭うと、何事かを決心したように立ち上がった。
「ツキダさん、出ましょう!」
 二人は一緒にサウナを出て、シャワーを浴びる。
――気持ち良い。
 ツキダは、何年もこの手の場所に来ていなかったせいもあって新鮮だった。以前は、中年の親父達がどうしてサウナなんぞに入りたがるのか、理解に苦しんだ。
 何を好き好んで暑い思いをしなければならないのだ。
 ツキダがもう一度、サウナに入ろうと思い、ナラセを誘おうか、と迷った時、
「ツキダさん、すみませんが、先に上がります。少し外を歩いて来ますから、店長たちにはまだ入っている事にしておいて下さい。暫くしたら戻りますから」
と言って、さっさと風呂から出て行ってしまった。
 ツキダは、自分もあのくらいの頃、もう一度、サウナなんて、あり得なかったよな、と思い、またサウナに入った。
 あんな事を言って、先に宴会場に帰られたら、エライ事だな、と最初は心配していたが、徐々にサウナの熱が、ツキダから思考を奪って行く。
――ああ、心地良い……

 ナラセは風呂を上がると、大急ぎで浴衣に着替え、健康ランドの建物から外に出て、駐車場に停めてある自分の車に乗った。
 ナラセは、たまに親の会社を破壊したい、という衝動に駆られる。
 親の会社のせいで、自分は縛られている、と感じるのだが、そんなことが言い訳であることは自分自身が一番理解している。
 しかし、もし、この基盤がなくなれば、自分は、普通に社会に出る、という選択しか無くなり、少なくとも大きな迷いの選択肢は消えるだろう、とも思うのだった。
 携帯を出してから、暫く、その番号を見つめていたが、やがて、意を決して、電話をかけた。すぐに出た電話の相手と話し始める。

 ツキダが風呂から上がって、宴会場に戻って来ると、すでに料理が用意されていた。
 かなり豪勢な料理だ。旅館で出されるような、黒塗りの脚付きの高御膳に輪島塗風のお椀や海鮮料理の皿が所狭しと乗っている。
 白髪の男と眼鏡の男は、箸を付けずに待っていた。
「あれ? ナラセ君は?」
 白髪の男がツキダを睨んだ。
 ツキダは、先に来られていたよりはマシだが、あまり遅れて来られるのもまずいな、と思いつつ、
「え……と、すぐに来るはずですが……」
 暫くして、ナラセが、旅行の時に使うような大きなキャリーバッグを持って宴会場に戻って来た。
 車のトランクの中に、いつも入れてあるのだと言う。
「僕も皆さんの芸を見ているだけでは、なんなので……実は、僕、子供の頃からマジックが大好きでして、いつも車のトランクにマジック道具一式入れてあるんですよ。今日は皆さんに披露させて下さい」
と言い出した。
 白髪の男が、
「おお! これは、これは、楽しみですねえ」
と大げさに喜んで見せる。
 しかし、その眼光は鋭かった。小声で眼鏡の男に、
「ちゃんと撮影しておいて下さいよ。盛り上がってるとこ、本社に送るんだから」
と指示した。
 ナラセが、大きなキャリーバッグを持ったまま舞台に上がる。
 眼鏡の男が、「おおぉ!」と手を叩きながら、料理に箸をつけようとしたところを白髪の男に、
「まだ、ナラセ君が食べてないでしょ」
とたしなめられる。
 眼鏡の男は恨めしそうに料理を見て、ため息をついた。
 ナラセは舞台の袖に入ると、大きなキャリーバッグのファスナーを開けた。中から、キラキラと光るスパンコールのようなラメのジャケットを取り出して、前後を確認している。少し、丸めて入れられていたせいで、シワだらけになっている。
 そのシワを一生懸命に伸ばし始めた。舞台の袖から、チラリと宴会場を見ると、三人が料理を前に行儀よく座って、舞台の方を見ていた。
 鞄の中からシルククハットとステッキを出した。
 シルクハットの中を確認する。
 色々と仕掛けを仕込むので忙しそうだ。
 眼鏡の男が、
「ナラセ君! 食事を先にしてからでも良いですよ!」
と声をかけたが、あとでいいです、とあっさり言われて、眼鏡の男が切なそうな目で、ツキダを見た。
 ツキダも、ナラセにそこまで要求するのは酷だと思い、仕方がない、と諦めた。自分なんて、今でも、そんなに気が回らない。
 ナラセが舞台の袖で、浴衣の上に、ラメのジャケットを羽織り、気合を入れるようにコクっと頷いた。

 老人は大使館の自室で、フガク州とサカオガワ州のジオラマを眺めている。
 かねてから選択肢の一つとしてあがっていた水門の破壊計画だったが、適当な実行方法がなかったため、保留にされていたのだ。
 しかし金髪の男の携帯に入っていたデータが、この計画を実現可能にした。
 老人が電話で指示を出している。
「良いか。くれぐれも早まるなよ。あくまでも犯行声明は、水門の破壊が確認されてからだ」
 念を押して電話を切ると、再び、老人はフガク州とサカオガワ州のジオラマを見ながら、計画に穴がないか、思いを巡らせているように見えた。
 その時、内線が鳴った。
「ん? チャンピオンが? ……ワシに? よし、お通ししなさい」

 ナラセが袖に引っ込んでいる間、白髪の男が携帯を取り出して、グラフを見ている。株価のようだ。
「おお! おお! 持ち直してる! よし、よし、その調子だ。頑張れ、頑張れ!」
 マジックショー独特の音楽が流れて来た。
 舞台の袖の近くに置かれたナラセの携帯が鳴っている。
 眼鏡の男が、自分のパクリだと、ぶつぶつと独り言を言っている。
「見てないようで、見てるんだよな……」
 マジックショーの音楽が流れる中、眼鏡の男が携帯を見て、
「あっ、宇宙中継の時間だ!」
 と言ってから、携帯の画面を切り替えた。画面に月の上らしい映像が映った。
 ツキダは、仕方がない、と自分の携帯を出して、マジックショー撮影の準備をした。

 大使館の老人の自室のドアがノックされ、老人が入るように言うと、河原で腹筋をしていた男が入って来た。
「おお! チャンピオン! これは、これは、久しぶりですな。元気にされてましたかな?」
 老人は、河原の男をチャンピオンと呼び、親しげに近寄りながら、男の肩を軽く叩いた。
 河原の男が、
「ええ、まあ、体は元気ですが……」
 と少しかすれた声で話し、
「全面的にというわけには……最近、ジムの方が……立て直すのに、いくらか入用になりまして……」
 ほう! と、老人の目が鋭く光った。
「昼間のテレビの醜態はそれでしたか。ちょうど、今、あなたの後輩に電話してたところですよ。あまり昔の事を公にするのは良くありませんな。口は災いの元ですよ」
「ええ、まあ、そうなんですが、ある人に、あの事を話せば、資金援助してくれるって言われまして……でも、結局、何も話せませんでしたよ。途中でカメラが切り替わっちゃって……閣下、一体、あれ、どうやったんです?」
「そんな事は、どうでも良い!」
 老人が大喝を入れた。河原の男がビクッとした。
「良いか! チャンピオン、あんたは紛れもなく、ワシが今までに見たチャンピオンの中でも、最高のチャンピオンじゃ。確かに、昔、手を汚させたかもしれん。しかし、ちゃんと援助させてもらったつもりじゃ。ジムの傾きも、これで三度めじゃろ。どうもチャンピオンは、経営には向いておらんのじゃないかな? どうじゃ? またワシの元に戻って来んか?」
 河原の男は老人から目を逸らした。逸らした先には、先ほど老人が見ていたフガク州とサカオガワ州のジオラマがある。
「いえ、今日は、その人からの伝言で、ここに来たんですが……その……私なら、あなたが話を聞くんじゃないかって事でしょうね。ええと……彼と提携したらどうです?」
 河原の男が言うや否や、銃声が鳴った。
 いつの間にか老人が銃を河原の男に向けて発泡したのだ。
 銃弾は河原の男の顔を掠めた。
 硝煙が立ち上る中、
「だまらっしゃい!」
 老人のしわがれてはいるが、太い声が館内に響いた。
「調子に乗るのもいい加減にせんか! ワシはお前らのような卑小な考えで動いておるのではない!」
 いきなり、発砲されて、不意を付かれた河原の男はヘナヘナと座り込んだ。
「よかろう! 今夜、開かれている闇ボクシングに出てみなされ。そのファイトで勝ったら、借金を精算して、ジムの再興費用を出そうではないか。死ぬかもしれんが……出てもらう!」
 老人の有無を言わさぬ強い調子に河原の男がうなだれた。

 ババアと一緒に宇宙中継を見ている。
 明日のスピーチの原稿は、一向に進んでいない様子だ。
――一体、どうするつもりなのだろうか。
 最近、月に行ったという話を聞かなくなって久しい。自分と周りに関心がなかっただけなのか、それとも、本当に行っていないのか、わからない。
 ただ、珍しく夕食時のゴールデンタイムに宇宙中継が始まっている。
 ババアが、何か食べたい、と言うので簡単にお粥を作って食べさせたが、まずい、と散々文句を言いながら、突然、
「シマモ! テレビ付けて、宇宙、宇宙、今日、宇宙よ。何でアンタ覚えてないの? お昼にアタシ、楽しみにしてるって言ってたでしょ!」
と大騒ぎし始めたので、慌ててテレビをつけたのだった。
 月面ではシャチホコみたいな宇宙船が着陸し始めていた。
――良かった、どうやら、まだ、始まったばかりのようだ。
 これで、もう、船外活動なんて始まっていたら、どうなっていた事か、と胸を撫で下ろす。
 ババアも文句を言わず、大人しく画面に釘付けになっている。
 いつの間にか、宇宙船のイメージも変わったものだと感心しつつ、金色である必要があるのか、さっぱりわからなかった。
 何か熱反射の理論と関係があるのだろうか? その事に関する説明は一切ない。
 私は、ババアが疑問に思って、電話で聞いて、と言い出さないかと、ヒヤヒヤしていた。
 撮影はどこからしているのだろう? 今のカメラの位置は月面からだった。昼の番組を見てから、妙にカメラの位置が気になる。
 自分が疑問を見つける度に、ババアが騒ぎ始めるのじゃないかと、不安になる。
 しかし、彼女はボーっと見ているともなく、見ている。

 ナラセのマジックショーが始まっている。
 どこかで見た事があるようなものばかりだった。
 次々と繰り広げられる古典的なマジックに、驚きたくても、驚けずに、白髪の男とツキダは固まっている。
 輪ゴムを指から指に移動するマジックのあと、拳の上をコインが転がる芸が続き、舞台の上でやるには、地味すぎて何をやっているのか手元が良く見えない。
 舞台の中央に置かれた携帯から、流れる軽快な音楽が悲しげな調べに聞こえて来て、ナラセのキラキラと光るシワだらけのジャケットが哀愁を漂わせている。
 眼鏡の男だけが、おお! 凄い! とやけに感情のこもった歓声と拍手で盛り上げていたが、どこかタイミングが合っていない。
 白髪の男とツキダが感心して、眼鏡の男をチラリと見ると、彼の視線は、携帯の宇宙中継に釘付けになっていた。
 顔と体だけは、ナラセの方を向いている。
 最初こそ呆れていた白髪の男も、次第に飽きて来たようで、携帯に映し出された株価のグラフを見ながら、手を叩き、いいぞ、いいぞ、と叫び始めた。
 たまに、我を忘れて、くそっ! と小声が混じる。
 ツキダは、そんな二人を見て、器用だと思いながら、果たして、自分に足らないのは、こういう所かと思ったりする。
 ツキダは必死にナラセのマジックの撮影を続けていた。素人から見ても、下手に違いなかったが、ナラセの意識がどういうわけか、ツキダに向けられているように感じたからだ。
 一緒にサウナに入ってからだ。
 裸の付き合いというやつだろうか。
 しかし、ナラセの気合と反比例するように、マジックに失敗が目立ち始めた。
――気合が空回りしているのだろうか?
 それとも少しずつ難易度を上げているのだろうか?
 その後、演じるマジックは悉く失敗した。
 失敗が続く中、少し間を開けるなり、すれば良いのだが、ナラセは、失敗すれば、するほど、動揺が隠せなくなり、その動揺が失敗するはずのないマジックまで、失敗させた。
 たった三人しかいない宴会場で、どうしてこんなに緊張するのかというほど、緊張している。
 決して萎縮しているのではない。殺気に近いようなやる気が、とてつもない緊張を生んでいるのだった。
 しかも、失敗する度に落ち込むので、五回連続で失敗した時には、いい大人が泣き出すのではないかと思えるほど震えていた。
 ツキダの応援にも自然と熱がこもる。
――落、ち、着、け!

 ババアが、宇宙中継を見ながら、また眠ってしまった。
 さっき作ったお粥に軽い睡眠薬を入れておいたのだ。そんなに強くはないので、じきに目を覚ますだろう。
 彼女が眠ると本当にほっとする。寝顔だけは天使なのだ。
 それにしても、リンゴを食べている顔は酷かった。
 鼻と目頭にシワを寄せて、獣のようだった。
 このまま寝顔を見ていて、薬が切れて目を覚まされたら、睡眠薬を入れた意味がないし、まだ効いていないうちに、動くと怪しまれるし、確かに寝入ったという証拠が欲しい。
 疑い出すと、今しがた天使と思っていた顔が、狸寝入りのように見えて来るから不思議だ。
 ヘタに顔でも突付いて、なに? などと目を開けられたら、言い訳のしようがない。
 とにかく呼吸を注意深く観察して、眠ったように思えたので、動き出す事にした。
 書斎から事務室を通って廊下に出て、会議室に入った。
 会議室は、普段、後援会メンバーの寄り合い所のような場所になっている。
 その部屋の奥には小部屋があり、その小部屋の中には大きな金庫があった。
 事実上、金庫室と言ってもいい場所だ。もし、この小部屋にいた事が知られたら、言い逃れは出来ない。
 今、この後援会館には私達しかいないのだ。
 この金庫には、融資などの契約書と、系列会社の株券、そして後援会の外交上の機密文書が入っていた。
 昼間、ババアが一人重要なスポンサーを失って落ち込んでいたはずだったのに、電話が一本入っただけで、一気に息を吹き返した情報が気になる。
 夕方ころ、後援会館に文書が届き、会長のジジイが金庫に入れたのだった。
 彼らは、その手の書類はこの金庫にしまい、まるで金庫番のように居付き、朝から談笑しているのだが、夕食前には、勝手に連れ立って帰って行く。
 ババアは電話を切った後も、明日のスピーチで公開するから、と何も教えてくれなかった。
――相当、重要な情報に間違いない。
 金庫は暗証番号を正確に入力しないと開かない仕組みになっている。金庫の扉には電卓のような数字のボタンが並んでいた。暗証番号は、恐らく先代と会長のジジイしか知らないはずだ。ババアにも知らされていないのだ。
 番号を押している姿を隠すために、わざわざ作られたような小部屋だった。
 小部屋のドアを締めると、真っ暗になったので、懐中電灯をつける。片手で金庫の扉を照らしながら、数字のボタンを押して行く。
 ババアの誕生日を入力すると、扉はあっけなく開いた。ウソみたいな話だが、そんなものなのだ。
 この事をババアも知らないで、開けられない、と思い込んでいるのが滑稽だ。
 金庫の中には、今日届いたばかりの見慣れない茶封筒が入っていた。
 封筒の中から文書を取り出してみると、何かの契約書のようだ。
――内容は……
 字面を追って行く。最初、何が書かれているのかまったく理解出来なかった。文面は理解出来る。しかし、あり得ない内容を読んでいる時、頭が全く働かなくなる。理解しているはずの事が信じられないのだ。違う意味を探している。しかし、何度も読み返しているうちに、自分の中の動かないと信じていた常識がゆっくりと動き始めた。一度、動いてしまうと、そこには実にシンプルな内容が書かれていた。
――こんな事って本当にあるんだろうか?
 とても昼間のババアの驚きようでは足らない。
 私は急いで、契約書を封筒に戻して、金庫の扉を閉めた。

 ナラセのマジックの失敗は、ついに七連続を更新していた。
――もう、後がないぞ!
 ツキダは携帯のカメラを片手に必死に応援する。
 ナラセは満を持したように、顔を緊張させ、今度は、絶対に失敗しない、するわけがないマジックをやろう、と決心したように、舞台の袖に引込んだ。
 ずっと舞台に立ちっぱなしで冷静さを欠いていたので、良い判断のように思えた。
――そうだ! 少し休むんだ!
しかしツキダの思いとは裏腹に、ナラセはすぐに舞台に出てきた。出方が忙しない。まったく冷静さを取り戻してはいないようだ。
 手にはステッキが握られている。ステッキをクルクルと回し始めた。
――ここまではイイ! そうだ! 花を出すやつだ……うん、あれなら失敗しようがない。
 ツキダは少し安心しかけたが、すぐに裏切られた。
 ナラセがステッキの取手を思いっきり引っ張っると……どういうわけか取手だけが取れた。
――花は?
 花が出るはずだろう。
 ナラセは、傘の取手のように曲がった部分と、ステッキの棒だけを見て唖然として震えている。
 あまりに初歩的過ぎて長い間やっていなかったのだろう。車のトランクの熱で、糊でも溶けたのだろうか……
――そんな事はもうどうでも良い! せめて照れ笑いで良いから笑ってくれ!
 笑って誤魔化してくれ! 誰が君を図々しい、などと非難する者がいようか。
 笑ってくれさえすれば、ツキダも笑って、そういう芸という事に出来るのだ。
 しかし、ナラセは目を丸くして、顔を真っ赤にして、思いっきり、ステッキと取手を舞台の袖に投げてしまった。
 ナラセが良くないのは、何事もなかったように、次のマジックを始めることだ。
 ゲーム世代の悪い癖なのだろうか? 自分の中で、サーモスタットが発動するように、ある一定のストレスに達するとリセットしてしまうのだろうか?
 それとも自分も見習うべきだろうか?
 いや、せめて何事かは、あったようにして欲しい、それは周りの人々のために……
 本人のストレスは、なかった事に出来るのだろうが、そのストレスは周りが引き受けているのだ。
 ナラセが新聞を二つ、三つと、折り畳み始めた。
 辺りを見回して、舞台から降りて来て、水割り用に用意されていた銀色の水差しを持って舞台に戻って行く。
 アドリブのようだが、この辺はシナリオに含まれていたのだろう。オートマチックな感じがした。
 折り畳まれた新聞の中に水を注ぎ始めた。
 嫌な予感しかしない。
――ああ! やはり溢れた……
 ちゃんと、ビニール袋のある所に注がないと……
 いや、待てよ? そもそもビニール袋なんて仕込む時間があったかな? まさかタネは知っているんだよな。ツキダは気が気でない。
 ナラセは慌てて、新聞紙で床を拭いている。
 チラッとビニール袋が見えた。
――良かった、タネは知っているようだ。
おかしな所に安心する。
 ナラセが深呼吸を始めた。
――そうそう……落ち着いて、そう、まずは落ち着いて!
 ナラセがハンカチを出した。
――そうそう……まずは、その額の汗を拭って!
 ナラセは額の汗は拭かずに、片手に拳を作り、その中にハンカチを入れて行った。
 昼間の番組で三流芸人の女がやっていたヤツだ。
――そうそう、これなら失敗しないだろう。
と、思ったツキダの読みは甘かった。深呼吸し過ぎて、脱力し過ぎたのだろうか? 片手に握りこまれていなければならない、ゴム製の親指を落としてしまった。
 舞台の床に、親指が一つ転がっている。
 顔を真っ赤にして、握り込んだハンカチをまた広げた。
 ここで赤面したまま笑顔になった。
――だから、額の汗を拭いて! そのハンカチで!
 白髪の男は、最初こそ、株価を見ながら、いいぞ! と言っていたが、途中からナラセの異変に気づき、もう、株どころではなく、ナラセを見て固まっていた。
 ナラセの赤面した笑顔を見て、少し気が緩んだのか、ツキダの肩に自分の肩をぶつけながら、
「ツキダ君、何とかしなさいっ!」
――無茶を言う!
 ツキダが救いを求めるように、眼鏡の男を見ると、既に宇宙中継を見るのをやめて、彼も固まっていた。
 こういう所は見習うべきだ、とやけに感心したが、実際のところ、ナラセが、あと一回でも成功してくれたら、思いっきり拍手が出来るのに……と恨めしく思う。
 もしくは、もう少し緩んでくれたら、ギャグとして笑ってあげられるのに……
 みんなの思いも一緒のようだ。

 着物の男が、三流芸人の女の歌を既に五曲連続で聞かされて、うんざりしている。
 最初に、上手いですね、と褒めたのが間違いだった。
 すぐに二曲目を歌い出し、歌い終わると、
「若旦那さんも、何かお得意な芸を見せて下さい」
――このバカ女! 誰でもみんな芸を持っていると思っているのか!
 面倒になって思わず、
「いえ、もっと君の歌が聞きたいな」
 と言ってしまったのが、運の尽きだった。
 そのあと、こともあろうに三曲メドレーを歌い出したのだ。
 女の歌は、上手い方だったが、語尾の行き過ぎたビブラートが、着物の男の疲れた神経に障り、苛立出せた。
――これ以上はもう限界だ。
 即席でも何でも、何かやらなきゃ、歌い殺される。
「あの、私ばかり聞いているのも悪いので、私も何かやらせて下さい。で、ちょっと、すみませんが、ちょっとトイレです。失礼!」
「あっ! 仕込みですね。わかります。はい、お待ちしております。よっ! 若旦那ぁ!」
 着物の男は、席を離れ、本棚の中からマニュアルを取り出して読み始めた。
――でも、はて? 何で、あの女、俺のコードネーム知ってるんだ?
 まあ、良い。何々? ティッシュを指サックに入れると、消えたように見えると……なるほど!
 と、その瞬間、着物の男が、さきほどから、何やらモヤモヤとして、気持ちが悪かったものの正体がはっきりと、姿を表し始めた。
――そうか! そうだよ、チャンスじゃないか! こうしちゃ、おれん!

 書斎に戻って、しばらくしてから、ババアが目を覚ました。思ったよりも睡眠薬が聞かなかったようだ。無理もない、昼間から小刻みに眠っているのだ。
 ババアが顔を赤くして汗を流しながら、
「あれっ? アタシいつの間に寝ちゃったのよ!」
 ドキッとする。
「やだぁ! 宇宙中継、終わっちゃったじゃない!」
――はぁ~……また暫く煩くなりそうだ……
「ま、いっか……今ひとつ、盛り上がりに欠けたよねぇ。こう、なんて言うのかしら……そう! バーン! て、宇宙船が爆発するとかさ。もう、しょぼいけど、宇宙飛行士が風邪でくしゃみするとかでもいいや、そういうの、なかったぁ?」
――不謹慎な女だ……
「あ~、明日、最高のネタがあるのに、どうも切り口が見えて来ないわ~、宇宙飛行士がくしゃみの一つでもしてくれたら、掴みに使えたのにさ……シマモ、ちょっと、その雑誌取って、発想の転換が必要だわ」
 必要なのは発想の転換ではなく休養だ、と思いつつ、ババアが指した婦人雑誌を渡した。
「あれっ? 見えない。普段、大丈夫なんだけど、疲れると急に見えなくなるのよねえ……ちょっと、シマモ……え……と昨日、そうだ! トイレにある眼鏡持って来て」
――ババアが眼鏡?
 見たことがない。視力が悪いようにも思えない。まさか、二十八で老眼鏡?
 トイレに入った。このトイレは彼女専用のトイレで、初めて入る。
 まず目に入ったのは、斬新的なデザインの便座カバーだった。
 前の方の糸が簾のように前に垂れている。
 恐らくババアがヒステリーを起こして、引っ張って、そのままにしてあるのだろう。
 脇の台の上に鼻眼鏡を置いてあった。宴会芸などで使うものだ。
――……
 まさか、と思って、探してみるが、他に眼鏡らしきものが見つからない。
 後援会の誰かの孫でも遊びに来て、忘れて行ったのだろうか?
 私は、怒られるのを覚悟で、それを掴むと、ババアに渡した。
 彼女はそれを受け取ると、少し口をゆがませながら、
「ちょっと、シマモ~、笑わないでよ」
と言いながら、その鼻眼鏡をかけて、婦人雑誌を読み始めた。
――どうしよう……
 笑わないで、と釘を刺されたが、おかしくて仕方がない。
 駄目だ! その顔で眉間にシワを寄せないで!
 熱で苦しいのか、はあ、はあ、と息をするので、眼鏡が曇って来た。
――も、駄目だ!
「あの、ちょっとトイレに……」
 私は、大急ぎで廊下に出て、声を押し殺して笑った。駄目だ、涙が出る。
 こんなに笑ったのは久しぶりだ。

 ナラセは、その日、最後にして最大のマジックに臨んでいた。
「これが最後です。残念ですけど、アンコールはできません」
 三人がホッとした。
「果たして、このシルクハットの中から何が出て来るんでしょうか?」
 三人は固唾を呑んで一斉に、
――うさぎ?
 まさか…… そうでない事を三人が祈り始めた。
 ここまで、自分達でも出来そうなマジックの一つもこなせていないというのに、ここへ来て、そんな大技……上手く行くわけがない!
 さらに心配なのが、ナラセの真剣な表情――期待と高揚感……どうして、ここまで失敗続きなのに、次のマジックは成功すると信じられるのだろうか?
 白髪の男は、なるほど、そこは社長の血筋なのかもしれない。そういう凡人にはないDNAを持っているのかもしれない……がしかし、少なくともここでは、そのDNAを発揮して欲しくない、と思っていた。
 三人が、祈るような気持ちで見つめる中、
「さあ、何か……ゴソゴソと……音が聞こえて来ましたよ」
――何も聞こえない……
 誰一人、何も聞こえなかった。
 ツキダは、完全にいたたまれなくなっていた。
 まるでナラセのマジックの失敗の負の連鎖の様子が、自分が会社に入ってから、やって来た失敗の縮図のように感じ始めていたからだ。
 自分は、ずっと周りにこんな思いをさせていたのだろうか?
 失敗したら、自分で笑ってしまえば良かったじゃないか。
 それをカバーしようと、どんどん困難な仕事に挑戦しても、さらなる失敗を繰り返すだけだと、どうして気づかなかったのだろうか。
――落ち着け、落ち着け! 一度、仕切り直すんだ。
 なかった事にしよう、と必死にもがいていたのは、他ならぬ自分だったのだ。
 自分の中で、なかった事に出来たとしても、他の者達は覚えているのだ。でも、誰も責めよう、と思って覚えているわけではない。むしろ、自分を応援してくれる、その土台として覚えているのだ。
――そのことに気づいて、とにかく落ち着くんだ。今は何もしてあげられないけど、みんな応援しているんだ。
 ツキダは、撮影している携帯が震えているのに気づいた。
 眼鏡の男に近寄り、
「すみませんが、手が震えるので、ここからの撮影お願いします」
と、眼鏡の男に携帯を渡した。
 眼鏡の男が引き続きナラセの撮影を続けるが、ふと、横を見ると、すでにツキダの姿が消えていた。
 白髪の男が、人間ダーツ用に貰って来たダンボールにマジックで、「がんばって!」と大きく書いて、ナラセに見せている。
 ナラセはチラッとそれ見て、コクッと頷いたが、白髪の男と眼鏡の男を確認したあと、不安そうに目が泳ぎ始めた。
 白髪の男がナラセの異変に気づいて、周りを見てから、眼鏡の男に、
「ねぇ! ツキダ君は、どこに行ったの?」
 眼鏡の男が、
「えっと……トイレ……ですかね?」
「もう! 何やってるの! よくわからないけど、あれ、失敗したらまずいよ。今日、全然、ナラセ君の良い表情、撮れてないでしょ」
 眼鏡の男はとばっちりを受けて、一瞬、不服そうな顔を見せたが、すぐに、ナラセを見て緊張した。
 ナラセは暫く不安そうな、不服そうな表情で、ツキダの帰りを待っている様子だったが、白髪の男と眼鏡の男が、リズミカルに手を叩き始めたのに、気を取り直して、
「さあ! 何か出てきましたよ~。さあ、何でしょうか?」
と続きを始めた。
 何かが出てくるはずらしいが、一向に出て来る気配がない。
 ナラセが痺れを切らして、シルクハットの中に手を突っ込んだ。
「さあ! 恥ずかしがっているのかなあ? さあ! もう出てきて良いですよ~」
と言いながら、シルクハットの中を手当たり次第に探しまわっている。
 ガサガサという音が聞こえて来るが、動物のモノではなく、恐らくナラセの手の動きだろう。
 白髪の男の「がんばれ!」と書いたダンボールを持つ指先に強い力が入る。
 そのダンボールを舞台に向かって、前に突き出したり、引っ込めたりとリズミカルに繰り返している。
 突き出す度に、「がんばれー! がんばれー!」という声が聞こえて来そうだ。心の中では実際に叫びながら、祈るように目を閉じている。
 眼鏡の男はツキダから渡された携帯で撮影を続けていた。
 手にじっとりと汗をかき、額からも滲んでくる。
 小声でぶつぶつと、
「仕込み忘れたとか……有り得るよ」
 眼鏡の男の肩を白髪の男の肘が強くあたる。
「声、入っちゃうでしょ」
と耳元で言われ、眼鏡の男が肩を上げて、くすぐったがっている。
 新人の表情が明るくなった。ついにシルクハットの底で、それを探り当てたのだ。
 慎重な仕草で、その掴んだものを取り出した。
 それは……一羽の鳩だった。
――生きてるのか?
 白髪の男と眼鏡の男が体を緊張させた。
 そのナマモノであろう鳩が、グッタリと横たわっていたからだ。
 ナラセの一瞬明るくなった表情は、どこかへ消え失せ、目に涙を浮かべ、「ピージョン……」と言って震え出した。
 白髪の男が眼鏡の男に、
「もう! 何とかしなさいよ!」
 ダンボールを持ちながら、肘で突付いた。
「あれ、獣医で良いんですかね?」
「そういうことじゃないでしょ! もう……」
 その時、宴会場の場内が暗くなった。
 白髪の男が、
「あれ、何です? 停電?」
 眼鏡の男が、
「ご臨終……っていう演出ですかねえ」
と言いながら、周りをキョロキョロして、白髪の男に肘で突かれている。
 ナラセは、暗闇の中で泣き出しそうになりながら、「終わった……」と思っていた。
「もう見てられん!」という意味で照明を消されたのだろうか。
――仕方がない。結局、最後の演技も失敗してしまった。
 暫くの沈黙のあと、暗闇の中でナラセの姿が浮かび上がった。
 舞台に立っていたナラセに照明が充てられたのだ。
 眩しそうにシルクハットを持つ手で光を遮るナラセ、彼のもう片方の手には、グッタリと横たわる鳩……
 やがて、舞台の後の大きなスクリーンに、何かが映し出された。
 その光は、プロジェクターから発している。
 映しだされたものが、何やら蠢いている。
――鳩!
――鳩!
――鳩!
 その蠢いているものを正体は、鳩だった。
 激しく羽ばたいている鳩の映像が流れている。
 何百という鳩がバタバタと羽をぶつけ合いながら、飛んでいる。
 昼間、小さな会議室で見た光景だった。
 プロジェクターの光源にはツキダが座っていた。
 ナラセは眩しそうにしながら、自分の背後に映しだされたものを呆然と見ている。
 白髪の男は、口を半開きにしたまま、ナラセとツキダの姿を交互に見ている。
 眼鏡の男は、携帯のカメラをナラセに向けたまま、目をぱちくりしている。
 宴会会場は、舞台に上がっているナラセの背後に映しだされた鳩がバタバタしている以外は、静寂に包まれている。
 いつの間にか、ナラセの携帯から鳴っていた、いかにもチープマジックいう感じの音楽が止まっていた。

 ツキダが、大きく手を叩き始めた。
 その音には、他の者にも拍手を強制する力がこもっていた。
 白髪の男は、しばらくツキダの鬼気迫った姿を見ていたが、はっ、と我に返ると、彼もまた大きくを手を叩き始めた。
 思わず眼鏡の男も、つられて、持っていた携帯をおいて、叩き始めたが、すぐに白髪の男に、君はちゃんと撮ってなさい、と言われている。
 ナラセとその背後に映し出された、バタバタと羽をぶつけ合いながら、飛ぶ鳩たちに、盛大な拍手が贈られる。
 ナラセは目にうっすらと涙を浮かべつつも、ニコニコとした表情で一礼した。
「どうも、有難うございまいした」
 白髪の男が眼鏡の男に、
「ちゃんと撮ったぁ? ツキダ君も映して、そうそう、二人を交互にね。あと私も!」
 笑顔で手を叩いている姿を撮らせている。
 眼鏡の男が、
「ナラセ君もそのまま、そのまま、はい、こっち向いて、笑って、笑って、そう、そう、その調子!」
 ナラセも愛想よくニコニコと笑いながら、ツキダの方を見ている。
 ツキダも嬉しそうに、まだ手を叩き続けている。
 白髪の男が、
「ナラセ君、大成功、大成功! 終わり良ければすべて良しですよ! 支店の社員との共同演技ですよ。うん、良かった。良かった。大いに盛り上がりました。ささ、みんな! まだ料理に口つけてませんよ。食べて、食べて」
と言いながら、小刻みに拍手している。
 眼鏡の男は、白髪の男に指で、あっちを撮れ、こっちを撮れ、とさかんに指示されて、忙しい。
「あっ、そうだ! 私、良いこと思いつきました。ナラセ君、こっちに来て、ツキダ君と握手して下さい。ささ、早く、早く」
と、白髪の男が手招きしている。
 ナラセもツキダも、いえ、そんなの、良いですよ、と断っていたが、だんだん白髪の男の目が鋭くなって来た。
 仕方なく、ナラセが舞台から降り、照れくさそうにツキダの前に行き、手を差し出し、ツキダと握手した。
「撮ってる? 撮ってるね」
 白髪の男が眼鏡の男の肩を揺らして、眼鏡の男が、
「ちょ、ちょっと、店長、ブレます、ブレますって」
とウザったそうにしながらも、必死で二人の姿を撮影している。
「ね、今の映像、早速、本社の人事部に送っておきなさいよ」
「えっ? 店長、もう定時過ぎてますよ」
「いいから、いいから、本社なら、まだ、残っている人、いるんだって」
 眼鏡の男が、送信しようとすると、
「ちょっと、待って! 君、そのまま、送る気ぃ~! 君、さっきブツブツしゃべってるの、マイクが拾っちゃってるでしょ。あれ編集しなきゃ」
「えぇ! すぐに出来ませんよ」
「はい、ナラセ君もツキダ君も、料理、とっくに冷めちゃってるから、食べて、食べて。そうだ、一緒に、楽しそうに食べてるところも、撮ってもらいましょ。ささ撮って撮って」
 白髪の男が忙しない様子で、料理をつついている。
 ナラセとツキダも、楽しそうに食べている姿を撮られている。
 眼鏡の男がその姿を恨めしそうに撮りながら、片手で食べると、白髪の男が、
「君、ブレますよ。ほら、後で食べれば良いでしょ。ちゃんと撮って!」


 山の麓に小さなデパートがある。デパートと言っても、かつては大きな建物の部類に入っていたのだろうが、今となっては小じんまりとしたスーパーといった方が適当な建物だ。
 女優がデパートに入ると、地下に向かった。地下には金券ショップがある。為替もやっているようで、海外通貨のレートが表示されている。女優は身分証を出した。すると、少し大きめのバッグを渡された。
 周りに誰もいないことを確認してから、中を見ると、計画に必要なものが一通り入っているようだ。
――さすが若旦那。手際が良いじゃない。
 この建物の隣には、ロープウェイの駅がある。
 このロープウェイは、今でも現役で、休日や行楽シーズンには人が賑わう。隣の古びたデパートもこのおかげで、かろうじて持ちこたえている。
 しかしそんなロープウェイも平日の夜ともなれば、地元の人間以外に乗る者がいない。
 ロープウェイは山の頂上付近まで通っていた。
 女優は、そこからロープウェイに乗り、山の頂上に向かって行く。
 暗闇の向こうに一層黒々としたフガク州の湖が見えて来た。
 ライトアップされた川がある。
 その川は、フガク州の湖を源流とし、サカオガワ州とフガク州を分けていた。
 その川のライトアップは、幻想的な演出を狙ったものなどではない。
 両州を泳いで渡る不届き者を監視し、逮捕するためのものだ。
 両州に架かる橋を渡るには、通行税と称して、莫大な金額を払わなければならなかった。一般的な人の年収の二倍の金額に相当する。
 その為、お互いの州に行こうとすれば、泳いで渡ろうとする不届き者がいてもおかしくはなかった。
 ライトアップされた川の水利権は、今、女優が乗っているロープウェイ側、サカオガワ州にあった。
 源泉とする湖はフガク州にあるのに、その湖から流れる州境の川の水利権は川を挟んだサカオガワ州にあるという奇妙な状態になっていた。
 しかし、この状態は、道州制改革される前の県だった頃から継続しており、容易に解決出来ない問題となっていた。
 フガク州の湖の奥に水門がある。
 元々、その水門から流れている川が本流だった。
 地形の傾きからいって、その水門の側に流れる方が自然な姿なのだが、どういうわけか、今では、大雨で州境の川が、氾濫する危険がある時にだけ、開く事が許されていた。
 当然、フガク州側に、その事を不満に思う者達がいた。
 彼らは水利権の完全譲渡を望んでいる。
 今、女優は、老人から依頼を受けて、その水門を破壊しようとしている。
 水門が破壊されれば、フガク州の湖の水は、一気に水門側に流れるだろう。
 そして、地形からいうと、州境に流れている、今、ライトアップされている川には、一滴も流れなくなる事が予想された。
――この川を見るのも最後ね……
 女優はいくぶん感傷に浸っている。
 ロープウェイが終点駅に着いた。
 女優は駅を降りると、細いがしっかりと舗装されている道を歩き始める。
 初めてそこに来たわけではない。
 何度も歩いて体で覚えた道……無自覚に歩ける事からも伺える。
 降りるとすぐに、商魂たくましい寺の立て看板の案内図が方向を示していた。
 女優はその看板を見る事なく、その方向へ進んでいく。
 その寺は、禅寺の商いをしている。
 下界の喧騒で、心が汚れきったと思い込んでいる迷える者たちを相手に、異空間の狭い静寂を提供して、癒やされたと勘違いさせる商売をしている。
 女優は、ロープウェイを降りてから、数分後には禅寺の門前に立っていた。
 女優は、躊躇なく禅寺の門をくぐり、奥へ奥へと進んで行く。
 寺は古びてはいたが、しっかりと手入れされている。
 お堂の戸が開いていた。
 お堂の中には坊主が一人座っている。
 女優は、壁にかかっていた警策と呼ばれる、木で出来た板状の棒を取ると、静かに坊主の背後に回った。
 ゆっくりと警策を坊主の右肩にあてる。
 これから打ちますよ、という合図だ。
 坊主が合掌し、首を左に傾けて、右肩を打ちやすいようにあけた。
 その開いた右肩を小気味良く打った。
 静かなお堂に乾いた木の音が響いた。
 坊主がパチっと目を開けて、振り向いて、
「お前~、いつも突然だなあ~、びっくりしたぞ!」
「お父さん、驚いちゃダメでしょ。修行が足らないぞ」
 坊主が嬉しそうに豪快に笑った。
「酒だ! 酒にしよう!」
 
 静かなお堂の中で、坊主と女優が向かい合わせになって、酒を飲んでいる。
 一升瓶をそのまま脇に置き、つまみが一つもない。
 二人とも一言二言、話すだけで静かに、ちびりちびりとやっている。
「相変わらず、商売繁盛みたいね。よく手入れが行き届いてる」
「まあ、お陰様でぇ」
 坊主は屈託なく豪快に笑う。
「下界が、住みづらくなればなるほど、山の上は大儲けってわけだ。この輪廻、もう暫く続きそうだぞ」
「ちょっとやめてよ。私の前でまで、変な言葉使わないでよ。よく、それでばれないわね」
 坊主は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、
「なーに、この舞台があれば、何言ったって大丈夫さ。よく知っている人ほど、深読みしてくれるからな。中途半端に知っている奴ほどゴチャゴチャわけわからんこと抜かしがるけど、そういう奴は、強めに警策打って、こっちがストレス解消だ」
 坊主は愉快そうに笑いながら、女優に酒をついでもらう。

 四人の宴会がお開きになった。
 めいめい出された料理も食べ終わり、眼鏡の男も満足そうに楊枝を使っている。
 係の者が、そろそろ、と出るように促しに来たので、白髪の男が、
「じゃあ、出ますよ。みんな片付けて、私は、ちょっと、先に駐車場の方に行っていますから」
と出て行った。
 それぞれ、自分が持って来たものの片付けに手間取っている。
 ナラセは一通り、キャリーバッグの中に入れて、鳩だけ小さな鳥小屋に入れた。まだ元気がないが、だいぶ息を吹き返した様子だ。
 ツキダは、プロジェクターやノートパソコンなどのコードを片付けている。
 眼鏡の男がツキダを手伝いながら、
「いやー、助かりましたよ」
と何度も言った。
 ツキダは、何だか照れくさそうにしている。
 久しぶりに同僚から聞く感謝の言葉だった。
 三人が駐車場に出ると、白髪の男が、携帯で二次会の確認をしていた。今度は大丈夫なようだ。
「ささ、行きましょう」
と白髪の男が言うと、ナラセがすまなそうに、
「すみませんが、少し酔ったようなので、今日は、このまま帰ります」
と言いだした。
 白髪の男が慌てて、
「だって、ナラセ君、車はどうするの?」
「ここに置いていきます。さっき店の人にも了解を取りました」
 白髪の男は、かなり動揺した様子で言葉を詰まらせながら、
「え……と、じゃあタクシー呼びましょう。ちょっと窮屈ですけど、ナラセ君が助手席に乗って、少し休んで……」
 ナラセは、残念ですが、と言いながら、車のトランクの中から、携帯用の自転車を取り出した。
「ナラセ君、本当に二次会行かないの? ねぇ、行きましょうよ。ほらっ、君らも誘って!」
 白髪の男がすがるように、ナラセを誘っている。
 ナラセは、今日は本当に有難うございました、と笑顔で挨拶しながら、チラッとツキダを見て、また一礼して帰って行った。
 三人はナラセの後ろ姿を寂しそうに見送る。
 白髪の男は手を振りながら、お疲れ様、と言ったが、顔は不気味なほど無表情になっていた。
 眼鏡の男がそれに気づき、
「店長、キャンセル料が心配なんでしょ。それなら、ほらっ、ツキダさんがいますよ。三人いれば良いんでしょ?」
 白髪の男がチラリとツキダを見てから、眼鏡の男を睨むようにじっと見て、
「そういう事じゃないの。君はホンットそういう所、疎いねぇ……ナラセ君がいないと、経費で落ちないの。君が勘定払ってくれるの?」
と、かなり強い調子で言ったので、眼鏡の男は、その有無も言わせない迫力にシュンとなった。
 元々、ツキダは頭数に入っていない。
 ツキダはホッとして、
「あの、じゃあ、私もこれで、事務所に自転車が置いてありますんで、事務所まで歩いて帰ります。どうもお疲れ様でした」
と言って、逃げるように駐車場を後にした。
 駐車場に残された二人は、お疲れ様、言いながらツキダの後ろ姿を見て、しばらく佇んでいた。
 やがて、白髪の男が、ニヤリと笑いながら、
「せっかく予約したんだから、行きますか! ……キャンセル料取られちゃうしねぇ……」
 眼鏡の男が嬉しそうに、はい、と言ってタクシーを呼ぶ。
 タクシーに乗ってから、白髪の男が、念を押すように、
「言っときますけどね、自分の分は自分で払うんですよ」
と言うのを聞いて、眼鏡の男が呆れたように、わかってますよ、と答えている。
 喉元まで、株売ればあ? と言いそうになったが、グッと堪えた。
 タクシーが止まった。
 工事現場に差し掛かったらしく、車が一方通行になっている。
 止まっているタクシーの横を自転車が一台通り過ぎて行った。
「あれっ? あれ、ツキダさんじゃないですか?」
 眼鏡の男が言うと、白髪の男が、
「どこ、どこ?」
と嬉しそうにキョロキョロし始めた。
 眼鏡の男が、「ほら、あそこ」、と指した方向を見ると、白髪の男が、
「も、なんだあ~、ツキダ君か。ナラセ君と勘違いしちゃったよ」
「えっ? そう言いましたよね。呼びますか? 手を振ってみましょうか」
「やめなさい! って」
と、眼鏡の男の手を下げさせた。
「彼の仕事は、もう終わったの」
 タクシーが動き出すと、既にツキダの姿はなかった。
 二人を乗せたタクシーが繁華街へと消えて行く。

 集中治療室の中、心拍測定器、血圧計、心電図などの電気系統が手術台の周りを囲んでいる。
 その手術台の上には金髪の男が寝かされていた。
 金髪の男の体が手術台の上で不気味に照らされていた。
 執刀医らしき男が、メスを持ち、金髪の男の腹に刃をあてている。
 執刀医一人で、補助の看護師等がいないことから、正規の手術でないことは明らかだった。
 執刀医は腹の中から何か異物を取り出し、銀皿の上に置いた。
 その異物をメスで切ろうとしたが、硬くて切れない。
 執刀医は、おおよそ、手術と場違いな道具を取り出した。
 円盤形の電気ノコギリの刃が高音を出しながら回り始める。
 執刀医が、その異物から短刀を取り出し、銀皿の上に置きながら、呆れた様子で首を振った。腹を縫い始める。縫合が終わり、ふー、と息を吐いたとき、
「先生、終わったか?」
という声がした。
 執刀医が驚き、思わず、金髪の男の顔を見た。
 目は閉じている。
――気のせいか……
と思った瞬間、金髪の男の目が、カッ! と見開き、
 銀皿の短刀を奪うと、そのまま執刀医の首を刺した。
 血しぶきが飛ぶ。
 金髪の男は、タオルで顔を拭き、服を着ると、手術室を出た。
 ゆっくりと慎重に廊下を歩いて行く。病院ではない。どこか大きな建物の中のようだ。
 廊下に敷かれた上等な絨毯……資産家の家の中だろうか……
 廊下の突き当たりの奥の部屋のドアを開けて中に侵入した。
 かなり大きな部屋だ。
 金髪の男は部屋を見渡し、当惑した。
 サカオガワ州とフガク州のジオラマ模型、グランドピアノ、書斎机に大きな本棚、そして、その中にぽつんと置かれた粗末なベッド……
 ベッドの存在だけが、その部屋で浮いていた。まるで、どこかの野外病院に起きざらしにされているような、鉄パイプだけで出来ているものだ。
 部屋に大きな絵画が飾られていた。
――見覚えがある……
 そこに老人が入って来た。
「メリケン、随分じゃな! お前が目を覚まさないので、検査したら、腹の中に異物があると言うんで、ウチの医者に摘出手術させていたのに……恩を仇で返すとは、お前の事じゃ!」
 老人はかなり怒っている。
「何だ、閣下の部屋か……どうりで」
「どうしてくれる! あいつは、かなり腕の良いやつだったのに……」
 金髪の男は悪びれる様子もなく、
「せっかく隠してたモノ、取り出されてちまったんだ。おあいこさ」
「まあ、良い、次の仕事は、確実にやってもらうぞ」

 ひとしきり笑ってから書斎に戻ると、ババアが婦人雑誌をクローゼットに投げつけていた。
「何なの、これ! 何でバレてるのよ!」
 彼女が投げた雑誌を拾って、ゴミ箱に捨てた。
 それを見てババアが少し嬉しそうにしている。
 これは最近、私が編み出した秘伝だ。ババアがヒステリーを起こして、モノを投げたら、すかさずゴミ箱に入れる。すると、何故か、ババアの機嫌が収まるのだった。
 恐らく興奮した記事の内容は、公設秘書給与の流用の件だろう。私が先月リークしたものだ。
 国から、秘書に公的に給与が支払われているのだが、それを他に流用しているのではないか、という疑惑だった。
 私たち秘書は、ババアが筆頭株主をやっている会社から出向という形で派遣されている。
 だから、当然、給与は会社から支払われる。しかし、それではダブルインカムになってしまうため、後援会事務所が一時的にプールしている、というのが建前だったが、実際は他に流用されていた。
 私の他にも秘書は三人いる。他の秘書たちは衆議院会館にいる事が多いが、たまにこちらの後援会館にも、使いでやって来る。
 私も含め、ババアを『先生』と呼ぶ者はいない。皆、ババアを『代議士』と呼んでいる。それは間違いではない、彼女は代議士なのだ。
 しかし、先代は皆から『先生』と呼ばれていたらしい。
 ババアが時計を見た。
「は~、……もう、だいぶ遅くなっちゃったわねぇ……シマモ! もう今日はあがって良いわ」
「いえ、でも、まだ原稿が……」
「大丈夫よ。明日の朝には、ちゃぁんと出来上がってるわよ。良いから、さっ、アタシ、今晩も、ここに泊まるわ。だけど、鍵は、ちゃんと閉めて帰るのよ」
 私は仕方なく、帰る事にした。
 帰り際、ふと事務所のドアの脇を見ると、ダンボール箱が置かれていた。
 昨日、散々配り歩いたババアの自伝が詰まっている。その中から一冊拝借して、ドアを閉めた。

 帰ってからシャワーを浴びて、ベッドに入ると、帰りがけに拝借したババアの自伝――「アタシの闘争」を読み始めた。
 その自伝は拙い文章で書かれていたが、先代の隠し子として育ち、疎まれながらも、本家の子息を排斥して、二十五で代議士になったババアの足跡だった。なかなか読ませる。

 河原の男が、グローブを嵌められ、リングに向かっている。
 三十歳で引退してから十五年……二回もジムを潰しかけたが、今、また再興のチャンスが与えられていた。
――チャンス?
 冗談じゃない。これは処刑……そう処刑だ。
 引退してからも毎日のトレーニングを欠かした事はない。しかし、その量は、現役の頃の三分の一、いや四分の一になっているかもしれない。
 そんな自分が現役の闇ボクサー? そんなヤツ、本当にいたのか……いずれにしろ、かなうわけがない。
 恐らく、傷害事件などを起こして、ライセンスを剥奪されたチンピラだろう。
 リングの外で暴力事件を起こしたような輩だ。どんな手をつかって来るか、わかったものではない。
 あの老人に初めて世話になったのは、一度目のジムを潰しかけた時だった。再興資金を稼ぐために、フガク州の団体――水利権の奪還を主張している組織の幹部にならないかと誘われ、その話を受けたのだった。
 理屈がどうなっているのか、わからない。どうしてサカオガワ州の大使館に住む老人が、自分にそんな事をさせるのか。
 仕事は簡単だった。
 熱狂的に叫んで、水利権を取り戻す事を主張しながら、デモ行進をするだけだ。
 しかし、同胞の中には大声で何度も叫んでいるうちに精神が高揚し、野次馬に罵声を浴びせられた時、暴力衝動が抑えられなくなる者がたまに出てくる事があった。
 そんな者の顎を軽く掠らせ、少しの間、眠っていてもらうのだった。恐らく普通の人には見えないだろう。無防備な者の顎は、軽く拳を掠らせるだけで、簡単に脳震盪を起こす事が出来るのだ。
 そうやって、実際の暴力事件にならないように調整する役目を負っていた。
 統制された過激派と言っても良い。そして、その運動を指導している幹部達は、フガク州の住人ではなく、サカオガワ州の息がかかっているの者達だった。
 今日の昼の番組では、その事を暴露すれば、ジム再興の資金を出してくれる、という話だったが……どうやら、あの老人に邪魔されたらしい。
 河原の男がリングに上がると、すぐに鐘が鳴った。
 あくまでも前座扱いというわけだ。
 河原の男は、ディエンス一方で、すぐにコーナーに追い詰められた。
「いいぞ! やれー! KO見せろー! そのオッサン、パンチ、見えてねーぞー! 早く倒せー」
 ガラの悪い観客から野次が飛ぶ。
 リング上で、河原の男が逃げ周りながら打たれている姿を、老人が冷たい視線で見ている。どちらかを応援する様子はない。ただ、何かを観察するような好奇心と冷たさが混ざった視線……河原の男は追い詰められながらも、必死に致命傷だけは避けていた。

 双子の兄弟が山道を歩いている。
 弟が先を歩き、兄がその後を追っている。
 双子の弟が相変わらず携帯を頻繁に見ている。
 双子の兄は、弟に付いて来るように言われて、一緒に歩いていた。
「おい! どこまで行くんだよ。こんな所、誰も来ねぇだろ!」
「仕方ないよ。指令なんだから……」
 弟が携帯を見ながら、答える。
「おい! だから、その指令って何だよ! ちょっと見せてみろよ! 何て書いてあるんだよ」
 先を歩いていた弟がクルリと振り返り、兄の鼻先に携帯の画面を付き出した。
 今まで散々、見せろ、と言って来たが、弟が実際に、その指令というものを見せたのは、初めてのことだった。
 携帯には、
「ロープウェイに乗って、終点で降りたら、山道を進み、禅寺の横を通り過ぎて、さらに奥へ進んで下さい。次の指示は追って連絡します」
とだけ書かれていた。
「何だよ……お前も知らねぇのかよ……」
 兄は腹が立って来た。弟はそんな兄を無視して、歩き始める。
「お前、どうして、誰だかわかねぇヤツの指令なんか聞いてるんだよ……」
 兄は聞いておきながら、何となくわかる気がしていた。
 元々、二人は、タレントとして成功したかったわけではない。
 タレントになる前はお互いに違う仕事をしていたのだ。
 高校を出てから、兄は魚河岸、弟はショップの店員をしていた。
 しかし二年ほど前だろうか。二人の休日が合う事などなかったので、服のコーディネートを頼むために、弟に合わせて、仕事を休んだのだった。
 それは二人が街を歩いていた時だった。昼の番組のプロデューサーがたまたま二人を見つけ、面白がって番組に出演させた。それがきっかけとなってタレントになったのだ。
 二人は、スタイルが良い、という事と、さわやかな雰囲気を持っている、という以外に特別な魅力がない。
 専業でモデルがやれるほどでもなかったし、役者が出来る演技力もないし、セリフ覚えも良くない。
 何より、それらを努力して身に付けたい、という気概もなかった。
 昼の番組のプロデューサーに人生の旬の部分だけ利用された感がある。
 アドリブも効かないので、他のバラエティに出続けるのにも無理を感じていた。
 マネージャには、毎度のように、もう少し、前に出て行かないと! と叱られる。
 無理に出たところで気の利いたコメントが言えるはずもなく、司会やゲストが慌ててフォローすることになり、このど素人が! という空気が伝わって来る。
 後でディレクターにも、もっと空気を読んで! と注意される。
 出ても怒られ、出なかったらマネージャや事務所の社長に怒られ、一体どうしたら良いのか……
 最近では、最初に出演した昼の番組以外に仕事がない。
 互いに経験を積む前に、兄は魚河岸として、弟はショップの店員として、半人前の状態で辞めてしまったので、周りに頼りになる先輩など、いなかった。
 カメラの前ではニコニコしているのとは裏腹に、世界への憎悪が増して行く。
 まず、昼の番組のプロデューサーが興味本位で出演などさせなかったら、こんな事にはならなかったのだ、と恨んでいるし、事務所の社長が、契約しよう、などと言って来なかったら、タレントを目指そう、などという野望も持たなかっただろし、社長のことも恨んでいる。拾っておいて、最近では、愚痴ばかり聞かされる。
 マネージャの自分達に対する扱いも、日増しに酷くなっている。どちらがマネージャなのかわからない。
 この間なんか、
「お兄ちゃん、コーヒー買って来てよ。あっ、どっちでも良いや、どっちがどっちがわかんないし」
 マネージャは冗談のつもりか、へらへらと笑っていたが、笑えない。その癖、しっかりとコーヒーは買いに行かされた。
 兄が買って来たら、弟の方に、サンキュー、と言って、どうせテレパシーで伝わるんでしょ? と、さらに追い打ちをかけてくる。
――もう……キレる寸前だ……
 わかっている。もう少し、気の利いた事が言えれば、みんなハッピーなんだろ?
 だけど、俺も弟も、そういうことが出来ないから、普通に生きて行こう、としてたんじゃないか。
 高校の頃、クラスの女子には、そこそこモテていた。
 しかし、自分達が、役者やモデルになるほどではない、という自覚はあった。
 だから芸能界に入りたい、というような子供の頃の憧れは、かなり早い段階で冷めていたし、高校を出て、お互いにまったく違う道に進んだのだ。
 しかし、昼の番組に出演して、人気が出て来て、事務所にも入れたおかげで、自分達の才能に気が付かなかったけど、偉い大人達は、何かを感じてくれたんだろうか、と期待してしまったのだ。
 実際、視聴者にウケたんだから、自分達には何か隠された才能があるのかもしれない、と思い始めていたのに、最近ではスッカリ飽きられ、高校の頃には、しっかりと理解していたはずの現実を再び突きつけられていた。
 たった一つの昼の番組に、ほんの一瞬、彩りを添えるためだけに、自分達の人生は狂わされたのだ、と最近では冷静に見えて来ている。
 やっぱり自分達に非があるとは思えない。
――あんな番組も、スポンサー達も、みんな、みんな、消えてしまえば良いのに……最初からやり直したい……
 きっと……その気持ちは弟も同じだろう。
 周りへの恨みの強さも自分以上ではないか、というほどに伝わって来る。
 そんな折、弟の携帯に指令と称するメールが届くようになったらしい。
――もし、自分のところへ来ていたら……
 そう思うと、弟を放っておくわけにはいかない。
 弟とは言え、こいつのバカさ加減には本当に呆れる。
 同じ遺伝子なんだから、こいつをバカにすると、自分にも跳ね返ってくるが……
 今までに、どんなに、そのメールを見せろ! 言っても、見せてはくれなかった。
 きっと、自分だけに降りて来た蜘蛛の糸だと思っているのだ。
 蜘蛛の糸なら、俺にも上らせなきゃ落ちるだろ……
 昼の番組中に、何らかの指令があったようだ。
 が、邪魔してやった。
――いい気味だ! 自分だけ助かろうした罰だ。
 昼間のクスリが効いたのだろうか? 番組が終わってから、
「次の指令は、兄貴にも教えてやるよ」
 それで、こうして、今、山道を進んでいるのだった。
「あっ……指令が来た……ちょっと暑いね……」
 弟がネクタイを緩めた。
「見せるけど、わりい……今度はちょっと目、閉じてて」
 言われた通りにした。
――く、苦しい……
 弟が背後に回って、ネクタイで首を締めている。
 薄れゆく意識の中で、渡された携帯を見ると、
「まず、暑いと言いながら、自分のネクタイを緩めて下さい。次にお兄さんに目を閉じてもらって下さい。最後にお兄さんの背後に周り込んで、お兄さんの首をネクタイで思い切り締めて下さい。息が止まるまで手を緩めないのがベスト! 次の指示は追って連絡します」
――わかりやすい指示……で……良かったな……

 魚市場の女が、木の影に隠れて、しゃがみ込んだ姿勢で、双子のやり取りを一部始終見ていた。
 坑道への入り口を探していたが、なかなか見つからず、そのうち、もよおしてきたので、用を足していたところへ、双子がやって来たのだ。
 双子の片方が、もう一人の首を締めている。
 最初は、バタバタと抵抗していた一人も、そのうち両腕をダラリと垂らして動かなくなってしまった。
 魚市場の女は、最初から座り込んだ姿勢で見ていて、助かったと思った。
 もし立っていたら、腰が抜けた時に物音を立てて、気づかれていたかもしれない。
 座ったまま腰を抜かしていた。
 不思議なのは、弟が兄を殺した後、今度は、ネクタイを木にかけて、自殺した事だ。
 あっと言う間の出来事だった。
 昼間の双子の様子から、彼らも指令を受けている、と感じていた。
 双子達とはテレビで見た事があるだけだったが、仲間なんだ、という親近感で嬉しかった。今度、会ったら話しかけてみよう、思っていたのに……
 その双子が、今、目の前で、あっ、という間に死んでしまった。
 まるで魔法でも見ているようだった。尋常じゃない。
 父親が、逃げろ! とメッセージを送って来たのは、正しかったのだ、と確信に変わった。
 魚市場の女の指令には、
「まず海に来て下さい。次の指示は追って連絡します」
と書かれていた。
――冗談じゃない! 海で殺す気?
 その指令を無視して、今……山中で迷って……腰を抜かしている……


 女優が、坊主が眠っているのを確認して、お堂を出た。
 寺の裏に回ると洞窟のような穴がぽっかりと開いている。
 この辺りは、かつて掘られた坑道への入口が、あちらこちらに口を開けている。
 今は、そのほとんどがセメントで固められ、一般人が容易に入れないようになっているが、私有地は別だった。今でも入れる入り口は、ここだけではないはずだ。
 坑道の中は迷路のようになっているので、子供の頃から、絶対に入らないように言われて育った。
 しかし、女優は小学生の頃、一度だけロープを外の地蔵に縛って、中に入ってみた事があった。
 懐中電灯で映しだされる坑道は、広過ぎて不気味だった。
 進めば進んだ分の恐怖が、体重に加算されて行くように感じた。
 数十メートルだったのか、もしかするとたった数メートルだったのか……一歩も進めなくなり、振り返ると、もう何もかも忘れて、穴から出て来て、二度と入るものか、と思った。
 そんな事を思い出しながら、懐中電灯を片手に中に入って行く。あの頃と随分印象が違う。かまぼこ型に成形された坑道は、却って安定感があった。
――それにしても、こんなに狭かっただろうか?
 女優は、携帯を取り出した。携帯には坑道の地図が映し出された。坑道の中を懐中電灯片手にどんどん進んで行く。

 やがて坑道の中にコンクリートで密閉されている入口を見つけた。かつて別のルートと繋がっていたに違いない。携帯に表示されている地図と照合する。
 そこへ爆破装置を仕掛けた。火薬の量は、ダムのような水門を破壊するには、まったく足りなかったが、密閉されたコンクリートの壁にヒビを入れるには十分な量だ。

 魚市場の女が、坑道に入ってから、かなりの時間が経過している。
 坑道への入り口を見つけるのにも相当道に迷ってしまった。予定では既にフガク州に着いているはずだったが……
 魚市場の女が、歩き疲れて休んでいると、背後から光が差し込んで来た。
――誰かが入って来た!
 慌てて魚市場の女は自分の灯を消して、坑道の横穴に身を潜めた。
 段々と足音が近づいてくる。
 後をつけられていたのだろうか?
 横を通り過ぎた時に顔が見えた。見覚えのある顔だった。
――ええっと……最近良く見るCMの女優……ムフフの人?
 まさか、どうして、あの人がこんな坑道などに入って来たのだろう。
 声をかけてみようかと迷ったが、双子の件があるので躊躇する。
 声をかける前に、もう少し様子を見ることにした。
 女優は、コンクリートで塞がれている場所で何かしているようだ。
――何をしているのだろう
 その時、とてつもない閃光と、ドーン! という爆音が坑道に響いた。
 耳鳴りがひどく、何も聞こえなくなった。
――坑道が崩れた!
 何が起きたのかわからず、暫くじっとしていたが、どうやら坑道が崩れたのではないらしいことは確かだ。
 音のわりに爆発の規模は、それほど大きなものではなかったようだ。
 女優がコンクリートの壁を懐中電灯で照らしている。壁に少しヒビが入ったようだ。
 女優がタガネのようなものをヒビの隙間の差し込み、ハンマーで叩き始めた。
 どうやらコンクリートの壁を壊すつもりのようだ。
――あの……コンクリート……パパが、メタンガスを閉じ込めてるって言ってなかったけ?
 魚市場の女は慌てて、背中の酸素ボンベからの管を伸ばしてを口にあてた。
――何よ! あの女優! 自分だけ、とっくに酸素ボンベつけてるじゃない!
 坑道の中には未だに小さな酸素ボンベが転々と設置されている。
 昔は、籠にカナリアを入れて、持って来たのだ、と父から聞いた事がある。
 カナリアは非常にデリケートな生き物で、人間よりも早くメタンガスに気が付き、バタバタと暴れて死んでしまうのだと言う。かつて、ここで働いていた坑夫たちは、その様子を見て、慌てて避難していたのだという。
 しかし、それは遠い昔の話で、最近は、小型の酸素ボンベが等間隔で設置されていた。
 やはり、あの女優は、私を殺しに来たのだのだろうか?
――メタンガスで? 酷い! そうだ! 証拠になるかもしれない。
 女優の行動を携帯で撮影する事にした。

 河原の男の試合が終わり、老人は大使館の自室に戻って来ている。
 その大部屋には何でも揃っている。サカオガワ州とフガク州のジオラマ、大きな本棚と机と質素なベッド。
 そして、不釣り合いも見えるグランドピアノがあった。
 老人はそれを弾いている。
 明日の水門破壊の計画の昂ぶりを抑えているのだろうか? それとも盛り上げているのだろうか?
 それとも河原の男への追悼だろうか。


 日本語学者は、他の教授らと共にカラオケに来ていた。
 最初は断っていたのだが、数カ月前から断り続けていたこともあり、遂に断りきれなくなってしまったのだった。本当に間が悪い、今日だけは、付き合いたくなかったのに、今日に限って付き合わざる負えないとは……
 海外から高名な教授が遊びに来ているという事で、日本の文化とやらを紹介するのだそうだ。
 遊びに来ているのなら、勝手に遊ばせておけば良いものを……単に自分らが遊びたいだけではないのか! とは一講師である身分では言えない。
 仕方なく、ネクタイを頭に巻いて、楽しんでいる振りをする事にした。
 教授達は、カラオケもそっちのけにして、スポーツ談義を始めた。テレビは見ないのではないのか? スポーツ観戦はテレビに入らないのか?
 イライラしているせいで、下らない事に腹が立つ。
――明日の朝は早いのに……
 結局、彼とは連絡がつかなかった。こうなったら、かなり危険だが、彼女だけが、頼みの綱だ。

 白髪の男と眼鏡の男はしたたか飲んだ。散々、鬱憤を晴らし、陽気になっている。
 しかし、会計で出てきたレシートの金額を見て、一気に萎えてしまった。
 眼鏡の男が小声で、白髪の男に耳打ちした。
「これって、ボッタクリなんとか……ってやつですよね……」
 白髪の男が頷きながら、財布からカードを出して、
「は~、取りあえず建て替えときますけど……割り勘ですからね」
とキッパリとした調子で言った。

 携帯が鳴った。ババアからだ。
「シマモ~、今、大丈夫?」
 やけにしおらしい。
「ええ、どうされましたか? 救急車をお呼びましょうか?」
「そうね……それも良いわね……でも、今回はやめとくわ。その手は次に取っておくわ」
 怒られるかと思ったが……意外だ。
「とにかく全然、スピーチがまとまらないのよ。ああ~、頭がボーっとする……」
 こんな泣き言は珍しい。
「実はね……教えておきたい事があるのよ。今日の昼間、電話があったでしょ。あれね、サカオガワ州とフガク州の間で、水利権の共同利用が締結されたのよ。これ、明日、発表するから。どう? ビッグニュースでしょ」
――どういうつもり?
 私はとんでもなく動揺している。
 彼女が、今、さりげなく語った内容こそが、まさに金庫の中の契約書の内容だからだ。
 今までサカオガワ州が握っていた水利権――それをフガク州と共同利用する、という締結……これは重要機密のはずだ。もしかしたら、探りを入れているのだろうか?
「あら! シマモ、驚かないわね。五十年ぶりの快挙よ?」
――まずい……
「いえ……驚いています……その……あまりの事に……そう、あまりの事に言葉が出ません。お、おめでとうございます。今までの先生のご尽力の賜物でございますね」
「そうね。私だけの力……と言いたい所だけど、結局は、あの爺さん達や婆さん達の力でもあるのよね。悔しいけど、それは認めないとね」
 熱で頭がやられているのだろうか? そもそも、どうしてこんな深夜に電話をかけて来て、こんな重要な事を漏らすのだろうか。
「そうそう……とにかくアタシに……もし明日、何かあったら、この事だけでも発表しておいて欲しいのよ」
「えっ! 私がですか?」
「そうよ。他にこの事、誰にも言ってないんだから、シマモしかいないのよ。まだ、爺さん達も知らないはずだから。表向きはわね。だから、わかったわね。でも、たぶん大丈夫よ。朝までには何とかするから、一応、保険よ。こうしておけば、アタシも安心だからさ。じゃ、お休み」
 電話が切れた。
――大丈夫よ、先生……
 既に準備は終わっているから……

 ナラセ社長が社長室の椅子に座り、外を眺めながら、猫を撫でている。
 やがて猫が飽きたのか、男の膝からすべり降りた。
 机に向き直ると携帯をかけ始め、険悪な表情で、指示らしきものを与え、不機嫌そうに携帯を机の上に放り出した。

 老人が大使館の自室で、ベッドに座り、ぬいぐるみを抱いている。寝る時にはこれがないと眠れなかった。
 その大きな部屋の壁のほとんどを占領している絵画を見つめている。
 表情は情景を眺めているような、過去を探しているような、冷徹に現在を見ているような、なんとも形容のしがたい目で見つめていた。

 公開演説が始まろうとしている。
 人を集めたいのなら、昼過ぎか夕方にやれば良いのに、と思うが、そういうところが、役人がずれているところだろう。
 今朝は、特に冷え込んでいる。
 もう野党の連中は来ている。しかし、まだババアが来ない。
――やっぱり、ダメだったか……
 人目を避けて、舞台裏に隠れる。
 上着の内ポケットに入れておいたチタン製のスキットルを出して、一口飲むと、体が熱くなって来た。
 中にはウィスキーが入っている。決して、アルコールに強い方ではないが、顔には出ないので重宝している。
 演説会を主催している側の担当もそわそわして来て、さきほどから何度も、代議士はまだ御着きになりませんか? としつこく聞いて来るので煩くてかなわない。
 それにしても遅い。何度も携帯にかけているが、出ないし……
 このままだと、本当に世紀のビッグニュースを自分が伝えることになってしまう。
 目立つのはゴメンだ。もう、なんだかドキドキして来た。

 ツキダは、朝、起きてから、ベッドで横になりがら、録画したビデオを見ていた。
 昨日の昼間の番組があれから、どうなったのか、気になっていたからだ。
 昨日、見ていた所まで画面を見ながら早送りにしている。
 思えば、昨日は、この番組のせいで、ひどい目にあった、と苦笑いしている。
 番組に気を取られてファイルを編集していたせいで、うっかり削除してしまったらしい。
 その事に、プレゼン直前まで気付かなかったのは、大失態だった。しかし、そのせいで、宴会が断れなくなり、思いのほか楽しい時間が過ごせた。
――ナラセ君……彼は大丈夫だろうか?
 たぶんニコニコして帰って行ったので大丈夫だろう。どうも手先も、生き方の方も器用ではないようだ。マジックが失敗したくらいで半べそかくような青年だ。笑って帰ったのなら、きっと本心からだろう。
 自分の醜悪さなのだろう。そういう若者を見るのは悪くない気分だ。何となく自分に似ているように思うからだろうか。
 やっと昨日見た所までの早送りが終わった。
 双子の兄弟が出ている。片方が何かを言おうする度に、もう一人の双子が口を抑えて、言わせないようにしている。結局、そんなドタバタをしているうちに、またスタジオにカメラが戻るというのを繰り返していた。
――なんだぁ……
 別にどうという事もない。番組はその後、たいして盛り上がらなかったようだ。

 老人が大使館の大会議室で、大きなスクリーンにプロジェクターを投影していた。
 今朝の計画の確認だろうか。
 しかし、見ていたのは、昨晩の闇ボクシングの録画ビデオだった。
 河原の男がリングのコーナーに追い込まれ、対戦相手のラッシュにあっていた。
 対戦相手から、ワンツー、ワンツーと何度もパンチを受けながら、必死に致命傷になるパンチは避けている。
 それでもガード越しにもダメージが蓄積しているらしく、だいぶ足に来ているようだ。
 もうダウン寸前という状態。
 老人は座ったまま、拳に力を入れて見ている。
 老人の目だけがキラキラと光っていて、そのどんよりと薄暗い大部屋で異彩を放っている。
 握りしめた拳を小さく振り始めた。
 ようやく老人が口を開いた。
「いけ! そこだ!」

 ナラセの父親が創業した介護会社の本社ビルは、サカオガワ州にある。
 この男も世の創業者の特徴として仕事中毒を患い、休日だというのに朝早くから出社して社長室に篭っていた。
 デスクに座って、ノートパソコンを開くと、人事部から、「緊急!」というタイトルでメールが届いていた。
 そのメールには大量のファイルが添付されていた。どうやら、そのほとんどが画像ファイルのようだ。
 開いてみると、新人研修に送り込んだ息子のフガク州支店での様子らしい。
――何が、緊急だ!
と腹を立てながらも、どんどんと画像を送っていく。
 画面には、ツキダがダンボールの的を抱えて、息子がダーツをしている様子が映っていた。
 社長は無表情に画面を送る。
――そういえば……
 昨晩、息子から来た電話の内容を思い出している。
 支店にいるツキダという男に大変世話になったので、本社に戻してやって欲しい。そうすれば、今まで悩んでいたが、正式に入社することに決める、というものだった。
――何を今さら!
と思う。息子が後継者になる事は、ヤツが生まれた時点で決まっていた事なのだ。
 向いているか、向いていないか? そんな事は関係ない。芸術家じゃあるまいし。会社の仕事など、やりながら覚えるものだ。
 幹部には幹部の仕事――いや、作業がある。そう、所詮、幹部の仕事と言えど、私にとっては作業に過ぎない。五年も仕込めば誰でも出来る事だ。
 少なくとも息子が目を輝かせて、なりたいという職業は、才能がなければなれないものばかりだった。いい加減、その当たり前の事に気づいて欲しい。
 そんなことを考えながら、どんどん画像を早いペースで送って行く。
 やがて、ある画像で手を止めた。
 息子が舞台でマジックをやっている様子が映し出されていた。
 男は苦笑いしながら首を振っている。
 画像を送るペースがゆっくりになった。
 噛みしめるように送り続け、とうとう最後の一枚になった。
 その一枚は、バック・スクリーンに大量の鳩が映しさされ、息子が満面の笑顔で映っている画像だった。

 タイヤが、すり減る、甲高い音。
 会場に集まっている者達が耳を抑えながら、一斉に注目すると、演説会場に、物凄い勢いでタクシーが入って来た。
――ババアだ!
 やっとババアが到着した。いつもながら騒々しい。
 しかし、タクシーから降りた彼女の様子は芳しくなかった。
 顔は相変わらず赤く、まだ熱がありそうだ。
 話し方にも、いつものキレがない。
 いつものババアなら、タクシーの運転手を意味もなく、遅い、お前のせいで遅れた、とか何とか怒鳴っているところだ。
 恐らく、まだ頭がボーっとしているのではないか。
 私に会って、今朝、初めて言った言葉は、
「この会場、寒いわねぇ……」
 本当に、今朝は冷え込む。
「先生、やはり今日は、代役を立てた方が……」
 そんな事は無理だと思いながら、思わず言ってしまって後悔した。
「あら、シマモ、代役はアンタだって、昨晩、言っておいたじゃない。やってくれる?」
 声に力はないが、嫌味は相変わらず好調な様子だ。
 これなら、いざとなったら、やってくれるのはないか? もう祈るように期待するよりない。
「先生、原稿の方は……」
「…………」
 答えない。まさか……
「そんなのアドリブで何とでもなるわよ。私の前に、お偉い先生達のスピーチがあるんだから、内容が被らないためにも、全部、聞いておいた方が良いのよ」
 予感が的中した。その、まさか、だった。
 私は絶望的な気持ちになった。


 公開演説会場の駐車場に、けたたましい爆音が聞こえ、一瞬、聴衆の関心を引いた。
 その爆音の主は、ハーレー・ダビッドソンで、乗っていた男は日本語学者の男だった。
 早速、警備員に取り囲まれ、厳重に注意されている。
 しかし、私の気を引くには十分だった。
――なぜ、彼がここに?
 彼はここに来てはいけない人だ。
 正確には私と接触するのはまずい。
 どういうつもりなのだろうか? 向こうも私にはとっくに気づいているようだ。
 私は慌てて、会場の裏に移動して、彼が到着するのを待つ事にした。
 係の者が、慌てた様子で、私のところにやって来る。
 受付で、パーティー券を買いたい、と告げたようだ。
 通常、このような場では、門前払いになるはずだが、こと援助に関する申し込みについては例外だった。
 私に取り次がれるというわけだ。
 応接室に通すように言った。
――まったく……ババアの演説が始まろうというのに、タイミングが悪い!
 しばらくして、日本語学者の男がやって来た。
「……お久しぶり」
 私は小声で、
「ちょ……こっちの州での接触は、まずいはずじゃ……」
「うん、大変まずい。でも、そうも言ってられなくてね。メリケンと連絡が付かないんだ。彼に娘を見逃して欲しい、そう伝えてくれないかな」
 私は何の事か、わからず、当惑した。
「娘さん? ……ですか?」
「う~ん……どこから話そう。……実は、私の娘が、昨日の昼の番組で魚市場のアイドルとか、何とかでオープニングに出演したんだ」
 私は、ようやく理解した。
「娘さんって、あのゴムエプロンの子ですか?」
「えっ! 見ていたのかい? そいつは話が早くて助かる。その……君ならわかるだろ? 今、こっちに向かって逃げているはずなんだが……その……どうも捨て駒にされたみたいなんだ」
 なるほど、それでか。あの違和感は……クレイジーなようでいて、妙に冷静なものを感じた。利用されていたわけだ。確かに、このままだと口封じされるだろう。
 私は躊躇しながらも、
「あの……でも……私にはそんな力ありませんよ。残念ですが……もし彼女に会ったとしても、報告しないぐらいの事しか……それに私も昨晩からメリケンと連絡がつかなくて、……かなり重要な情報があったんですが……」
「そうか……うん……そう。君もか…… すまなかったね。他にこっちの州で知っている人がいなくてね……」
 日本語学者の男は苦悩の表情を浮かべた。
 無理もない、娘が利用されて、消されようとしているのだ。
「ところで、君、かなり優秀なようだね。やはり、水が合ったようだ。」
「ええ、まあ……その節はお世話になりました」
「やはり私の目に狂いはなかったようだ」
「いえ、まだ、評価は早いかと……」
 私をこの世界にスカウトしたのはこの男だ。一般的に、どこの国でも、機密情報部へのスカウトは大学の講師がやっている。講師なら、どの大学にも出入りが自由で、とりわけ目立たずに学生に接触可能だ。
 どういう基準で選んでいるのかはわからないが、何かあるのだろう。スカウトによる成功率は、ほぼ百パーセントに近いらしい。
 目をつけられた学生は、二年ほど観察され、スカウトに応じると、残りの二年はアルバイトと偽装して訓練が始まるのだ。卒業する頃にはすっかりと叩きこまれている。
 私もとんでもない男に見初められたものだ。
 このスカウトマンは、この間までサカオガワ州で仕事をしていたが、二年ほど前からフガク州に派遣されている。恐らく、こちらの学生を発掘しているのだろう。
「では……無理言って……」
 まだ何か言い足りない様子だったが、スカウトマンが爆音を轟かせながら去って行った。

 公開演説の主催者側も役者が揃って、落ち着きを取り戻している。
 テレビ局のレポーターと思しきマイクを持った者やカメラマン達がしきりに侵入を試みようとしているが、野党も含めた秘書連合軍と会場運営者達によって阻まれている。
 マイクを持った手がババアに近づいては押し戻されるという光景が繰り広げられていた。
 彼女は相変わらずフラフラしている。
 そんな中、彼女に近づいて来る男がいた。
 地味なスーツ姿の男だったので、思わず係の者かと、侵入を許してしまった。
「あっ、どうも、私……」
と、言いながら、胸の内ポケットから何かを取り出した。
――しまった! ……
……名刺だった。
 その男は税務署の職員だと名乗った。
「シマモ~」
 ババアが力なく呼んだ。
 迂闊だった。慌てて、
「これからスピーチなので困ります、またの機会に、今日のところは」
と職員との押し問答が始まる。
――まったく、何というタイミングで!
 そのうちに痺れを切らしたババアが、
「こんな所で不意打ちなんてしてないで、アナタ、直接事務所に来なさいよ。奇襲ならそこで受け付けるわよ」
――いや、それは困る!
 まだ対策が出来ていない……
 ああ、明日から、その対策も練らないと……
 元はと言えば、自分がリークした情報ではあったが、その事で今度は、自分が対応に追われるという……
 アクセルとブレーキを両方踏みつけるような状態から、いつになれば抜けられるのか。
 税務署の職員は、そうですか、とニヤリと笑うと、立ち去って行った。

 公開演説は先に野党がやり、与党はその次だった。
 その前に代議士達の紹介がある。司会が代議士たちの名前を順に呼び、呼ばれた代議士が檀上に上がり、手を振って、自分の席に着いて行く。
 司会がババアの名を呼んだ。
 いよいよ、ババアが檀上に上がった。
 本当にちょっと目を離した隙に、いつ、あんなものを用意していたのだろう? 他の秘書に?
 そうらしい。与党会館に常駐している秘書が大きな鞄を持っている。舞台裏で渡したらしい。
 ババアはシルクハットを被っていた。
 そしてステッキをクルクルと回しながら、檀上の前に進み出た。
 会場がワッと湧いた。
 司会が、かなり戸惑っていいる。
 無理もない。この公開演説はオフィシャルなものだからだ。一昨日の晩に身内の後援会で行われたものとは質が異なる。
 全国放送されるため、各局のレポーターの数も常軌を逸している。
 下手を打つと、政治生命が終わりかねないのだ。
 その辺のことは、ババアもよく分かっているはずだが……
――熱か!
 檀上で、ババアがくしゃみをした。
――やっぱり、風邪か……
 彼女の政治生命が終わってしまっては元も子もない。
 ここは無理矢理にでも引きずり下ろすか?
 いや、今となっては、もう無理だ……
 しかし彼女の次の行動で、いよいよ、私は頭が真っ白になった。
 ババアはポケットからハンカチを出すと、握りこぶしの中に詰め始めたのだ。
――まさか!
 嫌な予感しかしない。昨日の昼の番組で見たやつか?
 ババアが手を広げるとハンカチが消えていた。
 マジックは成功している。
 聴衆も一瞬呆気に取られていたが、やがて、おーー、という驚いているのか、何なのか、よくわからいリアクションをしている。
 こんなネタを仕込むために、今朝、遅れたというのか!
――心配して損した!
 だんだんと腹が立って来た。
 確かに全部、熱のせいかもしれない。
 しかし具合が悪いクセに土壇場になって、あれこれとネタを考える性質がアダになっている。
 国営のレポーターがあざとく、私を見つけて来てマイクを向けて来た。
 コイツらは国営特権で、関係者以外お断りのバリケードもすり抜けて、檀上のすぐ近くまで来ていた。
「失礼ですが、代議士の公設秘書をされている方ですよね。代議士はどういうおつもりで、あのようなパフォーマンスをなさっていらっしゃるのでしょうか? もしかして、あなたが助言されているんでしょうか?」
――まさか! そんなわけ、あるかー!
 私も今、知って驚いてるんだよ!
「い、いえ……そのようなことは……」
 歯切れが悪くなる。
「では、代議士、自らの演出と考えて良いわけですね」
 こいつら、何を考えているのか、ババアが考えた事なら、ババアを責められるし、ババアが後で、秘書の提言で……と言い訳したら、秘書は知らないと言っている、と追求するつもりなのだろうか?
「まだ公開演説は始まったばかりです。この後の先生のスピーチを聞いて頂ければ、先生が何をおっしゃりたいのか、ご理解頂けると思います。それまで楽しみに待っていて下さい」
――うっわー! 言ちゃったぁ!
 期待出来ないないことは、私が一番よく知っているのに……
 まだババアのスピーチは始まらない。野党のスピーチが三人ほど続いたあと、与党としてトリを務める事になる。

 ツキダは、部屋でくしゃみをして、鼻をかんでいる。
――風邪でもひいたか?
 熱はないようだ。買い物のついでに薬局にも寄るか……
 ツキダは、毎週、休日には細々とした日用品を買い出しに行く事にしていた。
 外出の用意をして、丁度、部屋を出る所だ。
 車で行こうか、自転車で行こうか迷っている。
 買い物リストを見て確認する。
 今日は荷物が多そうなので車で行く事にした。
 ツキダの車はワゴン車だ。昔、家族旅行用にと買ったものだったが、今では休日に荷物を運搬する用途にしか使われていない。
 しかも、大抵は一人分の買い出しなので、自転車で済ませる事が出来た。米や飲料水を買う時ぐらいしか車を使うことがない。

 ついにババアの前の代議士のスピーチが終わり、ババアの名前が呼ばれた。
 中央の演台のマイクの前に向かう足取りが、すでにフラフラとしている。
 やっと演台に着くや、しがみつくように捉まった。
 演台に掴って立っているのがやっとで、足には力が入っていない様子だ。
 演台に重量がなかったら、演台ごと前に倒れていただろう。
 マイクの前に立ってからも、彼女は一言も発せず、無言のまま時間が経過して行く。
 アドリブで決める、と言っていたが、やはり出だしが出ないようだ。
 会場もザワザワと騒がしくなって来た。
 司会が、
「あの代議士……どうされました?」
「ええ……ええ……大丈夫、す、すぐに始めます。もう、ちょっと待って下さい……」

 金髪の男が列車に乗っている。
 列車は海沿いを走り、金髪の男は、窓からその景色を眺めていた。
 車内は休日だというのにガラガラに空いている。
 まだ午前中だからだろうか。昼過ぎになれば、もっと乗客も増えるだろう。
 ボックス席を占領している金髪の男は、自分の隣の席に大きなサーフボードを立てかけている。
 前には誰も座っていない。
 窓から海の景色を眺める男の顔には表情というものがない。
 それを押し殺している、といった類のものではなく、そのままこの男の内面を映し出していた。
 この男自身、自分が憂鬱なのか愉快なのか、よくわからない。そんな事は考えないが良いに決まっていると、思っている。
 しばらく無表情のまま窓の外を見ていたが、その男の顔にふと表情が浮かんだ。
 苦痛の表情に見える。
 サーフボード立てかけてある席には、薄い箱が置かれていた。
 金髪の男が列車に乗り込む前に購入したものだ。
 その薄手の箱を膝の上に乗せ、蓋を開けるとピザが入っていた。
 それは男にとって少し遅めの朝食だった。
 すでに、そのピザはすっかりと冷えきっていたが、男は意に介する様子もなく、美味しいそうでも、不味そうでもなく、ただ機械的に、箱の中のピースを無造作に、つまんでは口に運んで行く。
 口に運び込まれる度に、徐々に男の表情から、苦痛が消えて行き、じきに元の無表情に戻った。
 金髪の男の隣にも、一人でボックス席を占領している男がいる。

 その男が、クンクンと鼻を鳴らした。
 その男は、昨日の昼の番組のスポンサーだった。
 スポンサーは、自分の空腹に気づき、昼には少し早かったが、駅で買って来た幕の内弁当を広げて、食べ始めた。
 瓶に入ったドリンクを飲みながら、一瞬、となりの金髪の男を見た。
 サーフボードが邪魔だ。
――普通は、この手のものは車の屋根の上だろう……
 こんなものを持って列車に乗り込むなんて、何て非常識な男だと思ったが、幸い列車の中は空いている。
 もくもくとピザを口に運び、まだ飲み込まないうちに、次のピースを詰め込んで行く。
 金髪の男が食べているピザのサイズは、恐らく二人分のサイズだろう。一つのピースがやけに大きい。その大きなピースを一口で口の中に押し込んで行く。
 スポンサーは見ているだけで気分が悪くなって来た。絶対にこんな男には、我が社の商品のCMには起用しない、と強く思う。
 たまには列車の一人旅も良い。
 仕事中は、いつでも、秘書と車で移動する事が多いので、休みくらい、誰にも気を使わずにボーっとしていたいのだ。
 恐らく秘書達に言わせれば、自由にやっているではないか、言われるだろう。
 しかし、ああいうのは演出なのだ。自分を少しだけ天才に見せるための……
 素の自分は、こうやって人目につかない時間帯に列車で海辺に行き、波でも眺めながら、ビールを飲んで、帰って来る。それだけで満足出来る人間なのだ。
――昨日の番組は散々だった……
 せっかくの新商品の宣伝にと、ディレクターに指示したのに、あんな状態では、かえって商品イメージを損なってしまう。そう判断して、急遽中止させた。
 それにしてもフガク州の過激派の連中は、質が悪い。「水利権を完全に譲渡しろ、さもなければ、番組に嫌がらせする」と脅迫して来たのだ。
 脅迫に備えて、元過激派の幹部だったという元ボクシングチャンピオンの男に証言させて、反撃するつもりで、待機させていたのだ。
 しかし、いざ証言が始まる段になって、突然、現場のカメラが故障してしまった。
 チャンピオンの話では、あの過激派を裏で支配しているのは、フガク州の住人ではないらしい。ある国の要人だという話だが、本番まで、それが誰なのかを知る事が出来なかった。
 駅に近づき列車のスピードが落ちて来た。
 スポンサーは、新発売のドリンクをゴクゴクと飲み干した。
――えっと……これ何だっけ?
 隣のボックス席に座っていた金髪の男が席を立った。
 どうやら、この駅で降りるようだ。
 降りる直前になって、立てかけてあったサーフボードの腹の部分をガサガサと爪を立てて、引っ掻くようにしている。
 そのうちサーフボードの腹の部分がを開いた。
――えっ? あそこって開くの?
とスポンサー驚いていると、金髪の男が、そこから何かを取り出した。
 一瞬の出来事だった。
 サーフボードで腕を隠すように……
 消音された銃声。
 スポンサーの頭がグッタリとうなだれた。
 列車のドアが開くと、サーフボードを担いで金髪の男が降りて行く。
 やがてドアが閉まると、列車がゆっくりと動き出した。
――閣下の依頼も、あと一人か。もう海に着いている頃かな? あの女の始末は楽そうだ。


 ビルメンテの男と若い同僚は、管理室の中でグッタリとしていた。今日の昼まで交代がない。
 夜で交代になるはずだったのが、シフトが狂ったらしい。
 なんでも突然やめたヤツが出たとかで、代わりが見つからないので、今日の昼まで連続勤務になってしまった。二四時間勤務になる。二人は交互に仮眠をとって何とか乗り切ろうとしていた。
 若い同僚が話しかけてくる。
「しかし、昨日は参りましたね」
「ああ、おっかしぃよな~、ちゃんと、あの姉ちゃんの言うとおりに戻したつもりだったんだけどな~」
 その直後、ガス漏れ警報が鳴り、大騒ぎになったのだった。
 二人とも当局から厳重な注意を受けて、疲れに拍車がかかった。
「なあ……また警報鳴ってねえか?」
「もう……先輩、勘弁して下さいよ。いい加減怒りますよ。空耳ですって」
 ビルメンテの男は昨晩から、度々、同じ事を言うので、若い同僚はすっかり参っていた。
 仮眠中にわざわざ起こして、警報鳴ってねえか、と聞くのである。
 しかし、今度は、
「あれっ? ……聞こえる……気がする」
 若い同僚も、いよいよ自分もおかしくなったか、と思ったが、確かに聞こえた。

 もうババアは限界だ。顔を真っ赤にして、もう立っているのもやっとなのだ。
 私は、急遽、舞台の脇から、檀上に上がった。
 司会が慌てた様子で、
「ちょっと演説中に困ります」
と言って来たが、構わず彼女に近寄った。
「ちょっと、何のつもり! バカ、降りなさい! アンタ、本気にしてたの? 代役なんて冗談に決まってるでしょ!」
「先生、カイロです。温まって下さい」
 私はそう言いながら、ババアの上着の内ポケットの中に手のひらサイズの物体を押し込んだ。
 そして、ババアの耳元に耳打ちしてから、無線のイヤホンを渡した。
 私は司会に、
「すみません。先生から持って来るように言われていまして」
と言い訳してから、足早に檀上を降りた。
 しばらく、きょとんとしていた司会だったが、
「え~……秘書の方がカイロを持って来られたようですね。代議士、大丈夫ですか? 確かに今日は冷え込みますものね。実は私も、お尻に入れています」
と言って、会場がどっと湧いた。

「おし! 良いぞ! それっ! ワン、ツー、ほい、そこでストレート! 良いぞ! その調子だ!」
 若いボクサーのパンチをミッドで受け止めながら、盛んに檄を飛ばして指導しているトレーナーがいる。
「おし! こらっ! 足を止めるな、おし、その調子! ほいっ、ガードが下がっとる! さっき教えたろ!」
 たまに若いボクサーの頭を小突いている。
 その男の活力のある声の調子とは裏腹に、顔の傷は酷いもので、まるでゾンビのようだった。
 本当に前が見えているのか? と疑うくらい瞼が腫れ上がっている。
 瞼の隙間からようやく、見ている有り様だ。
 唇も不気味に腫れ上がっている。
 昨日の昼の番組に一瞬映った、河原で腹筋していた男だと言われても、誰にもわからないだろう。
 しかし、その表情は晴れやかだった。
 リング上で、指導されているのは、昨日、河原のボートで遊ぼうとして注意されていた中学生だった。
「いいぞ! その調子だ! お前チャンピオン、狙えるぞ! そうだ! 今のパンチだ!」
 河原の男は勝ったのだ。
 昨晩の闇試合で、最初から、一方的に追い込まれて行ったかのように見えたのは、いわば、この男のスタイルだった。
 追い込まれているように見せているだけで、決定的なダメージを受けない技術に長けていた。
 そして相手が油断してラフに打ち込んで来る所を狙いすましてカウンターを打つ、それが彼の得意な戦法だった。
 しかし引退直前には、その戦法が広く知れわたり、相手も迂闊に打ち込んで来る事がなくなった。
 相手は確実にポイントを重ねて行き、判定に持ち込ん勝つ、というのが、いわばこのチャンピオンの攻略法として知られるところとなった。
 しかし、昨晩の闇試合の対戦相手は、この河原の男の現役時代を知る世代ではなかった。
 まんまと、この男の毒牙にかかり、ラフに決めに来たところをカウンターで沈められてしまったのだった。
 あの老人は、そんな元チャンピオンの姿が見れて満足したのだろうか……
 この男のジムの借金をすべて肩代わりしてやり、さらに運転資金も用意してくれたのだった。
「おら、おら、次、ボーっとしない! お前もリングに上がって来い!」
 もう一人、昨日の中学生が呼ばれた。

 着物の男が、車を走らせている。
 車は、延々と続く田園の風景の中を進んでいた。
 かなりのスピードが出ている。着物の男は焦っていた。
 イライラとしながら、時計を見ている。
 携帯が鳴った。
「すみません。ちょっとバタバタしてまして。あと五分ほどで着くと思います」
 昨晩、着物の女の歌から逃れようと、隠し芸マジックのマニュアルを読んでいた時に、突然、モヤを晴らす考えが閃いてから、一睡もしていない。
 早朝から、動ける業者に片っ端から電話をかけ始めて、調査させていたのだ。
 料金はたっぷりと、ふんだくられたが、すぐに取り戻せるはずだ。
 途中で、銀行にも寄った為、だいぶ時間をロスしまった。
 着物の男が車を止めた。
 そこはある介護施設のオーナーが所有する土地だった。
 着物の男が着くと、すでに業者と思しき作業員が何かを調査をしているようだ。
 土地の数カ所が白いチョークで囲まれていた。
 その部分を他の掘削業者に掘らせているようだ。
「どうです?」
 着物の男が作業員に聞くと、
「確かに、この辺の土地は、水が流れて来さえしなければ、元々の地盤は硬いようですね。実のところ、ここだけ調べても正確な事は言えませんが……」
 着物の男はその言葉を聞くと、
「そう、それが確認出来れば良いんだ。じゃあ、悪いけど、すぐに撤収してくれる?」
 そう言いながら、ニヤリと笑った。
 着物の男は、落ち着きのない様子で、そのまま、車に乗ると、今度は、その土地を所有しているオーナーの家に向かった。
 その土地から施設はまでは、まだ暫くかかる。
 そのおかげで、施設のオーナーに知られる事なく、土地を掘って調査する事が出来た。
 これから、自分が手に入れてしまえば、時系列はめちゃくちゃだが、問題にはならないだろう。
 やがて、車はオーナーの家の前に止まった。
 着物の男は車を降りる。手には黒いアタッシュケースを持っている。
 呼び鈴を押し、土地購入の件で連絡した者である事を伝えると、そのまま応接間に通された。
 暫く待っていると、介護士の服装を着た老人が入って来た。
 口元にはマスクをしている。
「すみません、これから出勤するもので、この格好で失礼します。しかし、朝六時に電話をかけてきて、十時に商談とは、また急ですな……」
 どうも訝しく思っているようだ。売らない、とでも言い出すつもりだろうか。
「すみません。私も仕事が忙しくて、なかなか時間が取れないもので、せっかちなようですが、お金ならここに、今朝、銀行から借りて来ました」
 着物の男が、アタッシュケースを開けると、中にはぎっしりと札束が入っていた。
 マスクをした男の目が細くなった。
 着物の男の心配は杞憂に終わり、その後は、滞り無く契約書を交わす事が出来た。
 車に乗り込むと、ふつふつと笑みが溢れて来る。
 着物の男はそのまま大使館へ車を向かわせた。


 二人は、地下の設備室に来て、またパネルを開けている。
「やっぱ、合ってるよな」
 二人で、携帯で撮影しておいた画像を見ながら確認したが、昨晩からどのスイッチも動いていなかった。
「だよな。俺ら、弄ってねえもんな」
「おかしいですね。じゃあ、何で警報鳴ってるんですかね」
 二人は携帯のガス検知器を出して来た。
 より正確に測れるものだ。
「もしかして外だったりして」
 若い同僚がヘラヘラしながら言うと、ビルメンテの男が、
「そうか! 外か! 外だよ!」
と言うと、そのまま検知器を持ったまま、外に出た。
 若い同僚が呆れながら、ビルメンテの男を追うと、本当に検知器は外の方が強い反応を示していた。
「おい、おい……本当に外かよ!」
「ですね……」
 二人は検知器をゆっくりと動かしながら、反応が強い方へ歩いて行く。
 やがて二人は、以前、使われていたという坑道の前に立っていた。
「これって……坑道の入口ですよね」
 若い同僚が不気味そうにビルメンテの男に聞いた。
「もう、使ってねえ、はずだけどな。それに、ここからガス漏れしてたら、まずいだろ……って、あれ~……やっぱ、ここだよ。この穴から、警報の音、聞こて来るぞ」
「本当だ。ちょっと先輩、これ、離れないと、まずいんじゃないですか? ほら、検知器も、そろそろ、致死量の値になりますよ」
 検知器の数字を見ると、かなり高い数値を示していた。
「でも、臭くねえな」
「メタンガスって無臭なんですよ。だからプロパンガスとかって、わざわざ匂いつけてるんじゃないですか」
「えっ? そうなの?」

 ツキダは、一通りの買い物を済ませて、車を走らせていた。
 携帯にメールが来たようだ。
 信号待ちになったので、チラリと送信先を確認する。
――本社からだ!
 ツキダは慌てて、車を路肩に止めた。
 休日に本社からメールが来た事など一度もない。
 ただ事ではない雰囲気に身震いする。
 昨日の失態が致命的になったのか?
 恐る恐るメールを開くと、長々と書いてあったが、要するに、
「本社に戻れ」
という内容の仮の辞令だった。
 何が何だか、わからない。
 昨晩の事を思い出すが、特に栄転になるような出来事など思い出せない。
 せいぜい、新人の下手なマジックを盛り上げてやったくらいか?
 ここへ来て、ようやく、ツキダは、社長の姓がナラセであった事を思い出した。
――遅すぎる!
 それで、白髪の男はあんなに神経質になっていたのか。
 それにしても、息子のマジックを盛り上げたくらいで、栄転など、ありうるのだろうか?
 まったく、理解が出来ない。
 ツキダは、ハンドルを握る手が震えるのを何とか抑えながら、家に着いた。
 ツキダは部屋に入ると、すぐに娘にメールで報せた。
 部屋の片隅には娘の誕生日用にと、以前、買ったぬいぐるみが埃をかぶっていた。ツキダはそれを持ち上げて、埃を払った。
――ああ、やっと元に戻れる……

 ナラセはベッドの上で目を覚ました。
 昨晩、自分が泊まっている部屋に戻ってから、さらに一人で、飲んだのだった。
 二日酔いのせいか、頭の奥にズーンという痛みを感じた。
 ベッドから起き上がると、スーツ姿のままだった。
 シワだらけになっている。
 昨晩、そのまま眠ってしまったらしい。
 昨晩のマジックショーのシワだらけのラメのジャケットを思い出して、苦笑いする。
 ぼやけた頭の中で、昨晩の大きな決断を思い出した。
――取り返しの付かないことをしてしまったのではないか?
 しかし、もう一つ、何か大事なことを忘れている気がする。
 昨晩は、そのことで悩んで一人で深酒をしてしまったのだった。
――さて……
 とりあえず、シャワーを浴びて、スウェットに着替えた。
 どうしても、何に悩んでいたのか、思い出せない。
 髪も乾かさないまま、立てかけてあったエレキギターを持ち上げた。
 昨日、支店に行く前に、車のトランクから出しておいたものだ。
 これが手元にないと、どうにも落ち着かない。
 アンプのスイッチを入れると、ズワーンという低温が響いた。
 ナラセは、いつもの慣れた調子で弾き始める。音量は抑えてある。
 最初のうちは、隣の住人の睡眠の妨げにならないようにと、気を使って弾いている。
 しかし、徐々に気持ちが乗って来るに連れて、おかまいなしになって来る。
 無意識に少しずつ、ボリュームを上げていく。
 いつものことだった。
 ナラセは、すでに歌い始めている。
 昨晩、父親に電話して、ツキダを本社に戻してくれるなら、自分も正式に入社する、と伝えたのだった。
 父は、わかった、とだけ言って電話を切った。
 あの人は、結果さえ、自分の思い通りになれば、そのプロセスなんて、どうでも良いのだ。
 父は、そのようなスタンスを一貫して持っている。
 それはナラセにとって、どうしても受け入れ難いことだった。
 が、今回は、それで助かった、と思った。
 あれこれと詮索されるのでは、かなわない。
――あれ? ……なぜ詮索されたくなかったんだっけ?
 ようやく、昨晩、悩んだ挙句、飲み直した理由――その形が姿を表して来た。
 となりの部屋から、ドン! と壁を叩く音が聞こえて、我に返る。
 いつの間にかシャウトしていたらしい……
――最後に、仲間とライブでもやろうかな……
 アンプのスイッチを切って、時計を見る。
――しまった! すでに始まっている。
 ナラセは慌てて支度を始めた。
 そうだ、もう答えは出ているではないか。
 突然、昨晩、迷い続けた挙句、決断出来なかった問題を思い出し、その瞬間に決断したことで、体が頭に追いついて行かない。
 まだ、新人研修が続く予定だったので、もう暫くフガク州にいる予定だった。
 その間、チャンスなら、いくらでもあるだろう、と思っていた。
 しかし、昨日の思い切った決断のせいで、明日帰る、と父に言ってしまったのだった。
 ナラセは、慌てて、着替えると、二日酔いだったことも忘れて、ホテルの部屋を後にした。


 女優は朝食を済ませ、食器を洗い終わると、時計を見た。
――そろそろ予定の時間ね。
 お堂の横を通り過ぎて、坑道の入口に向かう。
 お堂の中を見ると、数十人の在家が整然と並んで座禅を組んでいた。
 その彼らの背後を父が、警策を持って厳かに歩き回っている。
 坑道の入口に付くと、周りに人気がないことを確認して、リモコンを取り出した。
 昨晩、メタンガスの噴出を密閉していたコンクリートを破壊した。
 半日近く経過した事で、坑道内にはそれらが充満しているはずだ。
 フガク州の水門近くの坑道には、既に無線起動する点火プラグが設置されているらしい。
 後はスイッチを押すだけで、ドカンと行くはずだ。
 女優は時間を確認すると、躊躇なくスイッチのボタンを押した。
 ピッ、という電子音が返って来る。
 リモコンのスイッチは、発火する前に、無線が到達した信号を返して来るように設計されていた。
 手元のリモコンのスイッチが、発火に成功した事を伝えている。
――おかしい……
 何の爆音も聞こえて来ない。
 確かにフガク州側の爆発なのだから、爆音などないのかもしれない。
 しかし振動も来ないとは……メタンガスが充満していなかった?
 いや、ちゃんと噴出した事は確認している。
――なんで?
 理由はわからないが、どうやら失敗したらしい。
 老人の指示は、成否の如何に関わり無く、暫く身を隠すように、とのことだった。
 逃亡計画はシンプルなものだった。
 サカオガワ州とフガク州に連なる山の向こう側――サラメ州側に、どのような手を使おうが、入ってしまえば良い、というものだ。
 サラメ州は、連邦直轄の非干渉地域になっている。
 疑わしい、という理由だけで、捜査の対象にはならない。
 女優は、山の頂上に向かって歩き始めた。
 その途中にもう一つ、サラメ州に続く坑道があった。
 この坑道にはガスは充満していないはずだ。
 しかし、やはり入るのには躊躇した。フガク州の坑道とは繋がっていないはずだが……
 ともかく、行くより他ない。
――お父さん、また暫く会えないわね。

 ババアは私が渡したカイロが、実は無線機である事に気づいたようだ。
「先生、聞こえますか?」
 ババアは聴衆から見えないように、演台の下に手を隠して、檀上の脇にいる私に、OKサインを送って来た。
 私は、手で口元を隠すようにマイクをあてた。
 私の声がババアに届く。彼女はただ、聞こえる内容を話せば良いだけだ。
 ババアも心得たらしく、イヤホンに手を当てて、音が拡散しないように注意している。
 昨晩に考えついた最後の手段だった。今朝早いうちに盗聴機として設置していたものを回収して来たのだ。
 それが今、私の手に握られていた。
 用途は逆さまだが……
 私はゆっくりと深呼吸して、ババアの自伝を思い出した。
 そして、彼女が言いそうな言葉を紡ぎ出そうしている。
 私が、話し始めると、ババアもゆっくりと聴衆に向かって語り始めた。
「さきほど、最初に御覧頂いた、マジック……滑稽に見えたかもしれません。いえ、滑稽でしたね」
 聴衆に笑い声がもれた。
 ババアは怒っているのだろうか? 若干眼光が鋭くなったように感じた。しかし聴衆の前だ。すぐに温和な表情に戻る。
「そして……これから、みなさんにお話することもマジックのように滑稽に感じるかもしれません。しかし、これはミラクルなのです」
 少し間を置いた。聴衆が異変に気づいたようだ。息を呑んでババアの次の言葉に注目している。
「本当に……ここまで来るのに長い年月がかかったのです。実に五十年です。この会場にいらっしゃっている方々、私も含め、ほとんどの方々が生まれる前から、争われて来た問題なのです。私は何のことを話しているのか、もうお気づきでしょうか? いえ、たぶん、あまりにも、その問題が常態化し過ぎて、普段、意識にも上ってこないことなのです。今日、ここに集まった方々は、大きな歴史的瞬間に立ち会っているのです」
 聴衆もいい加減に痺れを切らして来たようだ。
 野党の親父達もバカにしたようにババアを見ている。
「本日、皆様に、過去五十年以上に渡って、サカオガワ州が独占していた水利権について、我がフガク州と共同利用する条約が締結された事をお伝えします」
 この発言で、会場が、一瞬シーンと静まった。
 野党の親父達もお互いに顔を見合わせて、目を白黒させている。
 中には露骨に悔しそうな表情を見せた議員もいた。
 暫く何が伝えられたのか呆気に取られていた聴衆達の中に、オー! という歓声を上げるものが数人出てきた。
 その歓声につられるように、やがて大きな歓声が会場を包んだ。
 テレビ局のレポーターも興奮して大声で報道している。
 檀上にカメラのフラッシュが溢れた。
 対抗馬の野党の議員たちが、唖然とした表情で間抜けに口を開けている。
 聴衆の歓声は鳴り止まない。
 ババアが聴衆に落ち着くように両手で抑制した。
「さて、この度、我がフガク州と隣のサカオガワ州との水利権の解決は、誠に快挙と言うに相応しい出来事ではありますが、これは、協調の第一歩に過ぎないのであります。考えてもみて下さい。同じ言葉を話す者同士が、たった河一本を挟んで行き来が困難になり、親子でも会いたい時に会えない、という事が現実に起きているのです」
 ババアは、聴衆を見渡した。
「政府は、これは国境ではない。何故なら、然るべき通行税を払えば、行き来は自由なのだから、と言っています。しかし、通行税は、今や低所得者にとっては年収の三年分に匹敵し、高所得者にとっても気楽に払えるような額ではありません。お金を払って、手に入れられる、そのことを保証していることが、すなわち、自由なのでしょうか? 自由ですか? それまで無料だったものに強制的に価格をつけたのは誰ですか? あなたですか? あなたですか? あなたですか? 誰なんですか?」
 ババアは一人、一人に指を指して、煽るように挑発する。
 聴衆は静かに聞いている。
「我々は、利用されてはならない……」

 ナラセは公開演説の会場に着いている。その場はものすごい熱気で、何か只ならぬ出来事が起きていることは確かだった。
 ナラセは人を探すように会場全体を見渡す。
 なかなか見つからない。水利権の妥結に漕ぎ着けた、という女代議士がまるでヒロインのように歓声と賞賛の声を一身に浴びていた。
 テレビ局などの報道陣、カメラが一斉に女代議士を撮影する中……
――見つけた!
 ステージの脇にその麗しい姿があった。
 ナラセはその女に会いに来たのだった。
 そもそも、会社を継ぐ気のなかったナラセは、ずっと研修なるものは避けていたのだが、その女が自分と別れてフガク州のある政治家の秘書になっていると知って、研修を受ける気になったのだった。
 こちらに来ている事は何度もメールで報せたが、返信はなかった。
 電話をかけても出ない事はわかっている。
 誰も注目しない中、ナラセだけが、彼女を見ていた。
 そのせいで、ナラセは気づいた。シマモの口の動きと代議士の口の動きが一致していたのだ。
 今、まさにスピーチをしているのはシマモなのだ。
 ナラセは、シマモのスピーチを聴いている。
「……」
 聞いているうちに、どうしてシマモが自分の元から去って行ったのか、本当の意味で理解出来た、と思った。
 自分には達成したい夢、と呼べるものがない。いや、かつてはあった。ミュージシャンになる事だ。シマモとはその頃、知り合った。彼女はよく、子供じみた夢ね、と笑った。いつからだろう? その夢もなくなり、普通の会社に就職しようと思いだしたのは? 父親の会社に入るのは絶対に嫌だった。
 しかし昨晩、ついに決心した。
 ツキダを本社に戻してもらう代わりに自分が入社する、と父に告げたのだった。
 父は、わかった、それは良かった、と言っただけで、どうして? とは尋ねなかった。自分の思い通りになれば、そのプロセスは無視してもかまわないのだった。
 自分は、入社して、これから、父の側近たちと戦うことになるのかもしれない。もしくは協力体制を作れるだろうか? いずれにせよ、これから、自分の居場所を作って行かなければならない。
 彼女はきっと、ずっと、自分を子供のように見ていたのだろう。そして、今、彼女は、何かを為そうとしている。数年したら、自分は彼女の前に再び立つにふさわしいと思えるだろうか?
 そもそも、自分は何を期待していたのだろう……
 また、子供じみた決断をしてしまったのかもしれない。
 ナラセは、来た道を引き返すしかなかった。


 サラメ州の国際空港で、車椅子に乗った女がゲートを越えようとしていた。
 足には包帯がまかれている。
 女優がゲートを通ろうした時、取り囲まれた。
「なに……あなた達? どいて頂戴! ちょっと放して、放してよ」
 女優は思わず立ち上がってしまった。
「間違いない! この女だ! あのCMに出ている女だ。昨晩、坑道を破壊した女で間違い」
――なっ、何でバレてるのよ。早過ぎるわよ。
「くそ~、裏切りやがったなあ、あのジジイ! ふざけんなよ~、こんなところで」
 女優は散々奇声を上げて、もがいたが、五人の警官に取り抑えられ、やがて静かになった。

 着物の男が、大使館の地下の自室でテレビを見ている。
 そわそわと落ち着きのない様子で、チャンネルを引っ切り無しに変えている。
――もうじき水門が爆破されるはずだ。
 そうなれば、莫大な利益が転がり込む。
 サカオガワ州の州境の川近辺の土地は水はけが悪い。
 川が氾濫すれば、フガク州の水門が開いて、未然に防がれるとは言え、確実なものなどないから、川近辺の地価は他と較べて低いのだ。
 しかし、水門が破壊されると、湖の水は一気にフガク州に流れ、こちらの川は干上がるはずだ。
 きっと、水門の建設はすぐには進まないだろう。今度の破壊は、相当に大規模なものだ。
 そうなれば、川近辺の土地の値段は、少なくとも三倍になる事が予想される。
 昨晩、この事を思い付いてから、大急ぎで川近辺で売りだしている土地がないか、調べると、ある介護事業を営んでいる会社が土地を手放したがっている事がわかった。
 何でもフガク州にまで手を広げている大手の成長がめざましく、ほとんどの客を持って行かれてしまい、廃業に追い込まれているのだという。
 さっきはキャッシュが功を奏して、即決させることが出来た。
 な~に、閣下だって、このくらいのアルバイトは大目に見てくれるはずだ。
 職業上知りうる情報で一儲けするのはインサイダー取引と言うそうだが、自分の場合、職業そのものが秘密なのだから、問題あるまい。
 着物の男は、今か、今か、と逸る気持ちを抑えながら、チャンネルを回し続けている。
――しかし、遅い! あの女、しくじったんじゃないだろうな!
 その時、テレビに大きく、ビルメンテの男が映し出された。
 画面のテロップには、
「大発見! ビル管理士さんが、ガス漏れを通報! 大手柄!」
と書かれている。
 ビルメンテの男がテレビに出演していた。
 レポーターが、
「ガス漏れの第一発見者の方です。お話を伺ってみましょう。どうして、ガス漏れしていることを突き止められたんですか?」
「ええ。ちょっと、恥ずかしい話なんだけどお。昨日、ガス漏れの事故起こしちゃってさあ……もう相当、参っちゃってたんだけどお……もう同僚と、首になるんじゃないかってよ~、あれは参ったよ。元はといえば、うっかり、パネルを開けちゃったのが……」
「あの……ガス漏れを事前に発見されたんですよね?」
「ああ、それは、さっきの話。あんたが、どうして、見つけたんですか? って言うからさあ……あれ~、どうしてって、ガス漏れ検知器で、ってことお? 確かに匂いではわからないんだよ。俺もさっき同僚から聞いて知ったんだけどよお」
 ビルメンテの男が照れくさそうに、顔をひきつらせて笑っている。
「えっ? じゃあ、そのガス漏れ検知器で? ということですか?」
「だあ~かあ~ら~、いつもガス漏れ検知器持って歩いているわけじゃないの。昨日、まあ、事故っちゃってさあ」
 片目をつむってバツの悪そうな表情をしながら、一人で小刻みに頷いている。
「それでさあ……まあ、元はと言えば、パネルをって……そうだよ、もっと元はと言えば、あの女の子の政治家あ! だから、何であんなに金持ちなの? ってそっからだよ」
 レポーターが慌てて、
「ええ……と、現場からは以上です」
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 私は、サカオガワ州とフガク州を挟んだ、州境の川の土手の道をを歩いている。
 かつて、この川は、県境の川、と呼ばれていたらしい。
 ゆったりと、地形に逆らったように流れる川……その河原の道を、それ以上にゆっくりと歩くのは気分が良い。たまに湖の方から吹いて来る風が気持よく頬を撫でる。
 公開演説が終わった後、ババアはすぐに、タクシーで病院に運ばれた。
 少し休んだ方が良いだろう。
 タクシーに乗る前にババアが、言ってくれたことが嬉しかった。
「シマモ……スピーチね。概ね言いたかった事、あれで良いわよ。アンタ、アタシの本、読んだでしょ」
 嬉しそうにニッコリと笑って、去って行った。
 別に、自分は、好きなように、話してやっただけだ。
 メールを確認すると、いくつかたまっていた。
 そのうちの一件を開いた。
――あっ! そう!
 そろそろ、顔が見たくなって来た頃だ……

 着物の男は、大使館の地下の道場で吠えていた。
「次ぃ!」
 若手の職員を並ばせ、次、次と関節技を決めては、悲鳴を上げさせている。
「おい、今日の若旦那、機嫌、悪過ぎねえか?」
「な、何でも、とんでもない借金して買った土地でさあ、大損こいたらしいぜ」
「プッ、まじかよ、それじゃ、八つ当たりじゃねえかよ……」
 話している若手の職員に、若旦那が甲高い声で、
「おい! そこ! 何しゃべってやがる! こっちに来い!」
 二人とも、ずるずると引きずられ、受け身も取れないようなスピードで転がされた。
「おら、立たんか! お前らの性根、叩きなおしてやる!」

 かつて使われていたという坑道からのガス漏れの騒ぎの中継がされていた。
 坑道の入口付近では、さかんに水蒸気が散布されている。
 レポーターが、
「メタンガスには水に溶け込むという性質があるため、水蒸気が散布されています。またこの事によって発火を防ぐ事が出来るようです」
 その時、俄に坑道が騒然とし始めた。
「大変です。人です。人が出てきました。女性です。何と、坑道の中から、女性が出てきました。どうした事でしょう。ええ、出で立ちが一風変わっています。ゴムのエプロン……何でしょう? 魚市場で履いている人を見た事があります。どういった事でしょうか? 濡れないように、この格好で、侵入しようとしていたのでしょうか」
 坑道から、びしょ濡れの女が出てきて、場が騒然となっている様子が映し出されている。
 魚市場の女だった。昨晩から、ずっと歩き通しだったのだ。
 フラフラになり、水蒸気を散布している作業員に支えられている。
「こらあ! どこから入ったあ! お嬢ちゃん、危ねえだろ!」
 年配の作業員が呆れて大声で怒鳴っている。
「やはり、やはり、ゴムエプロンの女性が、この混乱に乗じて、中に侵入していた様子です。一体何をしていたのでしょうか? 濡れないように、わざわざゴムエプロンをして中に入ったのでしょうか。野次馬としても質が悪い悪戯です」
 年配の作業監督が、
「もう、良いから、警察には突き出さねえから、とっとと、帰んなあ!」
と、魚市場の女の背中を押した。
 魚市場の女は、野次馬として処理された。ゴムエプロンも貢献したように思える。
「あっ、携帯、繋がるよ。やたっ」
 魚市場の女が日本語学者の男に電話している。
「パパ? うん、今、着いた。うん、わかった。あの地図ないとムリ。そう! もう、足パンパンだよ。迎えに来て。えっとね、テレビ局の人達がいっぱい来てるよ。えっとね……ガス漏れ事故だって騒いでる。そう、そのビルメンテの人が見つけたって騒いでるヤツ。もう歩けないよ。うん、わかった。待ってる」
 魚市場の女は、ビルの横に座り込んだ。

 ツキダは昼近くに目を覚ました。
 昨日の朝、届いたメール――本社復帰の知らせに大いに羽目を外し、部屋に一人でパーティーをしたのだった。
 こんなに飲んだのはいつ以来だろう。
 一昨日の宴会では、ほとんど飲んでいない。
 昨晩、浴びるほど飲み、一晩ゆっくり寝たことで、ツキダの体のどこもかしこもが緩んでいるようだった。
 何かが抜けたようだ。
 何気なく、メールをチェックする。
 どうせ、娘からの返信メールなど、数年も前から、ふーん、そう、くらいの定形的な内容しか返って来ない。
 それでも、返信が来たというだけで、癒される自分がいる。
 メールを開けると、
「お父さん、本社復帰、オメデトウ! で、良いのかな? 実は、私、言ってなかったけど、フガク州に来てるんだよ。今日、休みでしょ? 一緒にお昼、食べようよ?」
 ツキダは、慌てて返信して、待ち合わせの約束をした。

 ツキダは車にガソリンを入れている。自然と顔がにやける。もう歌い出したい気分だ。
 良いことの後には、良いことが続く。本社復帰、そして久々に娘と会える。
――それにしても……
 何だよ。あいつ来てたのかよ。もう、何でもっと早く知らせて来ないんだ。それにしても、あいつ、どうやってこっちに来た? ちょっと、バイト料で来られる金額じゃないぞ? 学校の特待生制度とか? あまり聞いた事がないな……
 まあ、会えば、その辺のことはすぐにわかるだろう。
 ツキダは、早目に待ち合わせの場所に着いた。
 その待ち合わせ場所は、昨日、両州の水利権問題をまとめて有名になった女政治家の後援会館だった。
――ここって、あの宝石の派手な議員の後援会館なんだ。
 この近くのホテルに宿泊しているのだろうか?
 車を止めて暫く待っていると、バックミラー越しに近づいてくる人影が見える。
 その影は、当然のようにツキダの車に回りこむと、勝手に助手席のドアを開けて座った。
 ツキダは、見覚えはあるが、見慣れない、その女に緊張した。
 ツキダの反応とは別に女は、くつろいでいる。
「待ったぁ?」
「こ、こっちに来てたんだ……」
 女は小さく頷いた。
「なんで、もっと早く知らせてくれないの?」
 女は、うん、まあ、いろいろあってね……、と口篭った。
「今、どこに泊まっているの? どうしてこっちに来たの? お金はどうしたの?」
 ツキダは、聞き出すと止まらなくなり、矢継ぎ早に質問する。
「この後援会館の代議士の秘書やっているの。事務所が用意してくれているワンルームマンションにいるんだけど、散らかってるから、中に入れろ、って言わないでね」
 ツキダは突然のことに言葉を失った。
――秘書だって? 働いているってことなのかあ?
「大丈夫よ。その……ゴメンね。先生って、忙しくて、ワンマンだからさあ……休みの予定とか立たないのよ。ちょっと、今日は先生が風邪を拗らせてくれて。特別に休暇になったのよ」
 ツキダは絶句したまま、今、自分の身に何が起きているのか、必死に理解しようと、頭に血を巡らせ始めた。
 それは、今まで倉庫に眠らせていたスピーカーに久しぶりに火を入れたように、立ち上がりが鈍い。
 この子は、この間まで、熊のぬいぐるみで大喜びしていた少女ではなかったか?
 何となく大学生になっている気はしていた。
 ツキダはようやく、聞くべき質問を思いついた。
「あれから……三、四年じゃなかったけ?」
「あれからって?」
「つい、この間、高校生になったばかりだった気がして……まだ、大学生じゃなかったか?」
「もう、お父さん、しっかりしてよ。ボケるの早いよ~、お父さんが言う、あれからって言ったら、もう、八年だよ。大学はもう卒業したよ~」
 シマモは呆れたように、首を振った。ツキダは呆然としている。
「お昼まで、まだ、だいぶ時間あるよ……そうだ! 昨日、良いところ、見つけたんだ。ちょっと行ってみようよ」
 二人は、サカオガワ州とフガク州を挟む州境の川の近くに車を止めた。
「この土手の道が、気持ち良いんだよ」
 シマモはさっさと助手席から降りて、土手の階段を登って行く。
 ツキダもエンジンを切って、慌ててシマモの後を追った。
 河原では、野球をやっている子供、社会人、サッカーをやっている者達がいた。
 二人はゆっくりと河原の道を歩いている。
「なんか……そうか、そうか……」
 ツキダはしきりに頷きながら、
「シマモ……すっかり、大人になってたんだな……俺、恥ずかしいよ。」
 ツキダは、歩きながら、そんな事を何度も言っている。
 シマモは、父親の顔を横目でチラリと見て何も言わない。
 二人は河原の道を、州境の川に沿ってゆっくりと、歩き続ける。
 ツキダはしばらく、念仏のようにブツブツと後悔の言葉を並べ立てていたが、やがて何も言わずに歩き始めた。
 顔面が真っ青になっている。
 どれくらい歩いただろう、ツキダは、突然、地面から這い上がって来しそうな深い溜息をついた。
「お父さん、取り返しのつかない事、しちまったんだな。もう、取り戻せないんだな……お前がすっかり大人になってる事に気付かなかったなんて……」
と言ったきり、また黙り込んでしまった。
 川を挟んだ向う側の、サカオガワ州の河原の様子が見えて来た。
 二人は向こうの河原の様子を見ながら、なおも沈黙のまま、ゆっくりと歩いている。
 シマモはたまに心配そうにツキダの様子を見ながら、物思いに耽る。
 ここ最近のババアとの日常、そして、今の仕事を選んだ自分の人生や決断について振り返っていた。
 やがて、シマモは、小さくため息をついて、
「お父さん、安心して。私、まだ、まだ、子供だって。なーんにも、本当に何にもわかってなかったのよ。だからさ、これから、いくらでも取り返せるって」
 少し、早歩きになった。
 河原の向こうから大きな良く通る声が聞こえて来た。
「ア! イ! ウ! エ! オ! ア! ……」
 腹部に両手をあて、発声練習している女がいる。
 その女は、一昨日、昼の番組でスベリ続けていた三流芸人の女だった。
 二人は何となくそこに立ち止まり、その様子を見るとはなく見ている。
 その声は、両州の河原に浸透するように響き渡って行く。
 暫く、発声練習を響かせたあと、女はそのまま河原に横になった。
 すぐに、女の腹筋運動が始まる。
「イッチ! ニイ! サン! シイ! ゴー! ロック! シッチ! ハッチ! ……」
「クー! ジュウ! ジュウイチ! ジュウ……ニ…………」
 運動は苦しそうだが、よく通る声が、なおも河原の空間を占領して行く。
 その時、気持ちの良い風が吹いた。
「お父さん、そう言えば、この州境の川って何て名前だっけ? お父さん、そういうの詳しいでしょ?」
 シマモはツキダの気を逸そうと聞く。
「ああ、この川ね。今は『州境の川』なんて言われているけど、その前は『県境の川』って呼ばれていた。でもね、そのずうっと前は、ヒルイ川って呼ばれていたんだ」
 ツキダは、以前に読んだ文献を思い出しながら、単調に語った。ツキダ自身、そのことには、あまり関心がない。
「へええ! さっすが、お父さん物知りぃ~」
 シマモが、からかっているのか、持ち上げようとしているのか、よくわからない相槌を打つ。
「それで、それで? 何でヒルイ川って言うの?」
 ツキダは、本当に関心があるのかな? と訝しがりながら、シマモの顔をチラリと見たあと、
「つまり……ええと……うーん、つまり確か……そう! ひるめし川ってことだよ。それが、ヒルイイ、ヒルイって訛ったんだ」
 ツキダは遠い記憶を掘り当てた。
「それで、それで? 何でひるめし川?」
 実は最初、それほど関心がなかったシマモも、少しだけ興味が出てきて、笑顔でツキダの顔を見ている。
 ツキダは段々と古い記憶が蘇り、調子が出てきていた。
「元々、ここには原っぱだったんだ。ちょっと窪んだ平地だよ。つまり川は流れていなかった……」
 シマモがツキダを顔を見たまま、驚いて目を見開いた。
「それが、あの湖に水門を作って、元あった川を塞いだ事で、流れるようになった事は知っているね」
 ツキダは、さも当然というように、何気なくシマモを見たが、シマモは何も言わず、ただ首を横に振った。
「そう……何で、水門を作ったのか? までは知らないけど。……つまり、ここは元々、州は勿論、県もなかった頃、ほらっ、たまに気持ち良い風が吹くだろ? それで、みんなが集まって昼飯を食べる場所だったって話」
 シマモは、河川敷が、広い原っぱで、みんなが仲良く、昼食を食べている光景を思い浮かべた。
 そこでは様々な人々が談笑したり、遊んだりしていたのだろうか。
 少し風が吹いた。シマモが目を閉じて、気持ち良さそうな表情を浮かべ、パッと目を開くと、
「あっ、良いこと思いついた! お昼、お店に行くのやめて、お弁当買って来てさ、ここで食べようよ! さっ、行きましょう。もう、私、お腹ぺこぺこ」
 シマモが早歩きで戻り始めた。その後をツキダが照れくさそうに追う。
「ア! イ! ウ! エ! オ! ア! ……」
 再び、河原の向こう岸から良く通る声が聞こえて来た。

(完)

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